読書履歴:仕事が速い人は「見えないところ」で何をしているのか? / 木部 智之

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2016年11月20日読了。

内容・感想まとめ

普段この手のハウツー本はあまり読まないものの、社内で「面白かった」とオススメされて購入。仕事を早く終わらせるための心構え的な大きな話から、エクセルテクニックなどの細かなことまで、まんべんなく網羅。社会人2~3年目くらい、業務が処理できなくなり出した頃のタイミングで読むと良いかも。

読書履歴:空気の作り方 / 池田 純

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2016年11月7日読了。

内容・感想まとめ

万年赤字だった横濱DeNAベイスターズを黒字化させることに成功した球団社長によるマーケティング、会社経営に関するハウツー本。C向けマーケティングのノウハウを中心に事例を織り交ぜながら、筆者の経営に対する姿勢や考え方をベイスターズが人気球団になるまでのプロセスと共に紹介。空気を創り上げるという意味ではマーケティングも組織運営、経営も同じようなもので、根底にあるのは来場者や従業員の視点で満足度を高めたいという顧客視点を徹底的に追求するスタンスなんだと感じた。

読書履歴:〈新版〉日本語の作文技術 / 本多勝一

 

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2016年10月10日読了。

内容・感想まとめ

トレタさんのブログで『これさえ読めば誰でも「わかりやすい文章」が書ける!かもしれないと紹介されていたのに惹かれて衝動買い。

英語など言語とは異なり、日本語は述語が文章の中心となる言語であるという主張を軸に、述語をいかにスムーズに読ませるかという文章構成のノウハウ・テクニックを「修飾語の順序」「句読点の位置」など九つの章にわたって解説。

読みにくい文章を「翻訳」的文章であるとし、文章の主体がSVである英語やフランス語からそうでない日本語にそのまま訳した場合や、著者の日本語能力の稚拙さによって読者に「翻訳」を求める場合などを例示。

Webサイトに載せる文章や提案書などの読ませる文章を書くことが多く、また、文章を書いているうちに言葉の語順や句読点の位置に迷うことが多くなる自分にとって「こう考えればいいのか」という示唆を与えてくれる一冊。

一部、例文や用語に原著の古さを感じるが、考え方自体は理路整然としてまったく古さを感じない。定期的に読み返して血肉としたい本。

マーカー引いた所(引用・抜粋)

わかりにくい文章の実例を検討してみると、最も目につくのは、修飾する言葉とされる言葉とのつながりが明白でない場合である。原因の第一は、両者が離れすぎていることによる。

修飾語の語順には四つの原則があり、重要な順に並べるとそれは次の通りである。 ①節を先に、句をあとに。 ②長い修飾語ほど先に、短いほどあとに。 ③大状況・重要内容ほど先に。 ④親和度(なじみ)の強弱による配置転換。

符号の中でも決定的に重要で、かつ用法についても論ずべき問題が多いのはテンの場合である。

「わかりやすい文章のために必要なテンの原則」(構文上の原則)をまとめて列挙しておく。 第一原則 長い修飾語が二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ。(重文の境界も同じ原則による。) 第二原則 原則的語順が逆順の場合にテンをうつ。 右の二大原則のほかに、筆者の考えをテンにたくす場合として、思想の最小単位を示す自由なテンがある。

構文上高次元のテン(文のテン)を生かすためには低次元のテン(節のテン)は除く方がよい。もしどうしても節のテンが必要になったときは、語順を変形して入れ子をはずせば解決する。

漢字とカナを併用するとわかりやすいのは、視覚としての言葉の「まとまり」が絵画化されるためなのだ。ローマ字表記の場合の「わかち書き」に当たる役割を果たしているのである。

漢字とカナの併用にこのような意味があることを理解すれば、どういうときに漢字を使い、どういうときに使うべきでないかはおのずと明らかであろう。たとえば「いま」とすべきか「今」とすべきかは、その置かれた状況によって異なる。前後に漢字がつづけば「いま」とすべきだし、ひらがなが続けば「今」とすべきである。

送りがなというものは、極論すれば各自の趣味の問題だと思う。ひとつの法則で規定しても無理が出てくる。あまり送らない傾向の人は全文を常にそうすべきであり、送りたい趣味の人は常に送るべきである。「住い」を「すまい」と読ませたり、「始る」を「はじまる」と読ませるのは、読者に一種の翻訳を強制することになりがちだ。やはり「住まい」「始まる」としたい。

文は長ければわかりにくく、短ければわかりやすいという迷信がよくあるが、わかりやすさと長短とは本質的には関係がない。問題は書き手が日本語に通じているかどうかであって、長い文はその実力の差が現れやすいために、自信のない人は短い方が無難だというだけのことであろう。

段落のいいかげんな文章は、骨折の重傷を負った欠陥文章といわなければならぬ。改行は必然性をもったものであり、勝手に変更が許されぬ点、マルやテンと少しも変わらない。

おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいときであって、書く人が いかにおもしろく思っているかを知っておもしろがるのではない。美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者がいくら「美しい」と感嘆しても何もならない。美しい風景自体は決して「美しい」とは叫んでいないのだ。その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない。

本を読むとき音読する人はほとんどいないけれど、しかし目で活字を追いながらも人は無意識にリズムを感じ取っているのだ。そうであれば、書く側がリズムにあわせて書かなければ読者の気分を乱すことになる。

読書履歴:失敗の本質 日本軍の組織論的研究 / 戸部良一、他

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2016年9月10日読了。

内容・感想まとめ

第二次世界大戦時の旧日本軍における失敗(敗戦)の事例から、組織における意思決定のプロセスや教育、マネジメントのあり方について考察。

旧日本軍が失敗した大きな要因として最も大きかったと読み取れたのは、その情報感度の低さ。相手との物量の差や、暗号解析等の情報収集を怠り、自らに都合の良い情報だけを拾い、「日本軍は優秀だから勝てる」という根拠のない精神論だけで強大な敵に戦いを挑んだ、ある意味、滑稽な軍幹部の様子がうかがい知れる。

ドラッカーが「経営者の条件」で触れていたように、失敗=国家の存亡が危ぶまれる、組織マネジメントが最も徹底されているべき、軍隊において、それがまったく行われていなかった・行われないとこうなる、という、失敗した組織の事例が分かりやすくまとめられている。

マーカー引いた所(引用・抜粋)

平時において、不確実性が相対的に低く安定した状況の下では、日本軍の組織はほぼ有効に機能していた。しかし、問題は危機においてどうであったか、ということである。危機、すなわち不確実性が高く不安定かつ流動的な状況で日本軍は、大東亜戦争のいくつかの作戦失敗に見られるように、有効に機能しえず様々な組織的欠陥を露呈した。

戦後、日本の組織一般が置かれた状況は、それほど重大な危機を伴うものではなかった。したがって、従来の組織原理に基づいて状況を乗り切ることは比較的容易であり、効果的でもあった。しかし、将来、危機的状況に迫られた場合、日本軍に集中的に表現された組織原理によって生き残ることができるかどうかは、大いに疑問となるところであろう。

戦闘は錯誤の連続であり、より少なく誤りをおこしたほうにより好ましい帰結をもたらすといわれる。戦闘というゲームの参加プレーヤーは、次の時点で直結する状況を確信をもって予想することができない。相手がどのような行動に出るか、それに対してこちらが対応した行動がどのような帰結を双方にもたらすかを、確実に予測することはできない。(中略)どのような行動(意思決定)が錯誤だったかということは、事後的な帰結に照らし合わせて後知恵によって評価されるからである。また錯誤それ自体は常に組織の失敗をもたらすわけではなく、意図せざる結果として組織の成功にむすびつく場合もある。

本来、作戦計画とは、実施後に生じるおそれのある誤断や錯誤をもみ込んで立てられるべきであった。

いかなる軍事上の作戦においても、そこには明確な戦略ないし作戦目的が存在しなければならない。目的のあいまいな作戦は、必ず失敗する。

日本軍の戦略策定は一定の原理や論理に基づくというよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずであった。これはおそらく科学的思考が、組織の思考のクセとして共有されるまでには至っていなかったことと関係があるだろう。

空気が支配する場所では、あらゆる議論は最後は空気によって決定される。もっとも、科学的な数字や情報、合理的な論理に基づく議論がまったくなされないというわけではない。そうではなくて、そうした議論を進めるなかである種の空気が発生するのである。

日本軍の戦闘上の巧緻さは、それを徹底することによって、それ自体が戦略的強みに転化することがあった。いわゆる、オペレーションの戦略化である。しかし、近代戦においてはこれがつねに通用するわけではなかった。一定の枠組みのなかで、敵の行動が可視的にとらえられ、自軍の行動に高度の統合性を要求されない様な場合においてのみ有効であった。

事実を冷静に直視し、情報と戦略を重視するという米軍の組織学習を促進する行動様式に対して、日本軍はときとして事実よりも自らの頭のなかだけで描いた状況を前提に情報を軽視し、戦略合理性を確保できなかった。(中略)日本軍内部の各級の教育機関でもしだいに、与えられた目的を最も有効に遂行しうる方法をいかにして既存の手段群から選択するかという点に教育の重点が置かれるようになった。学生にとって、問題はたえず、教科書や教官から与えられるものであって、目的や目標自体を創造したり、変革することはほとんど求められなかったし、また許容もされなかった。

日本軍は結果よりもプロセスを評価した。個々の戦闘においても、戦闘結果よりはリーダーの意図とか、やる気が評価された。

一つの組織が、環境に継続的に適応していくためには、組織は環境の変化に合わせて自らの戦略や組織を主体的に変革することができなければならない。こうした能力を持つ組織を、「自己革新組織」という。日本軍という一つの巨大組織が失敗したのは、このような自己革新に失敗したからなのである。

組織の文化は、とり立てて目を引くでもない、ささいな、日常の人々の相互作用の積み重ねによって形成されることが多いのである。

自己革新組織は、その構成要素に方向性を与え、その協働を確保するために統合的な価値あるいはビジョンを持たなければならない。自己革新組織は、組織内の構成要素の自律性を高めるとともに、それらの構成単位がバラバラになることなく総合力を発揮するために、全体組織がいかなる方向に進むべきかを全員に理解させなければならない。

読書履歴:ブラック・スワン(下) 不確実性とリスクの本質 / ナシーム・ニコラス・タレブ

ブラックスワン(下)

2016年8月21日読了。

内容・感想まとめ

予測も出来ない不確実な事象「黒い白鳥」について著者の考えを述べたエッセー的本。上巻が「黒い白鳥」の概念を中心に記載されているのに対し、下巻では「黒い白鳥」の出現を予想しようとする・ないし否定しようとする、哲学や統計学といった学問とそのツールについて徹底的に批判を展開。著者も本文で書いてあるように、批判の部分は読み飛ばしてもOK。

マーカー引いた所(引用・抜粋)

私たちにとって予測は複雑すぎる。それだけでなく、私たちの手に入る道具を全部使っても複雑すぎる。黒い白鳥は捉えどころがない。予測したって無駄だ。

今ある発見はほとんど全部セレンディピティ(ふとした偶然のたまもので良い目に遭える能力)のおかげでできたものだ。「セレンディピティ」というのは、作家のヒュー・ウォルポールが、おとぎ話の『セレンディップの三人の王子』からとってつくった言葉だ。三人の王子は、「いつも偶然とか機転とかのおかげで、もともと探していたわけではないものを発見する」。

ほとんどの予想屋たちは、予測されていなかった発見で大きな変化が起こるのをまったく予測できなかった。そのうえ、発見による変化は、彼らの予測より、ずっとゆっくりしかおこっていない。新しい技術が興るとき、私たちはその重要性を深刻に過小評価するか、深刻に過大評価するかのどちらかだ。

過去にたどった道筋を未来が踏み外すなら、ありうる踏み外し方は無限大だ。これは哲学者のネルソン・グッドマンが「帰納の謎」と呼んだ問題だ。私たちがまっすぐ線を引いて予測を行うのは、私たちの頭の中にまっすぐの線があるからだ。つまり、1000日にわたって数字が一直線に大きくなって来たなら、今後も大きくなり続けるに違いないと私たちは思い込んでしまう。でも、頭の中に非線形のモデルがあるなら、同じ事実を見ても、1001日目には数字が小さくなると思うかもしれない。

私たちは過去の経験を振り返って学ぶことが出来ないということだ。私たちは物忘れがひどく、将来における自分の情緒の状態を予測するとき、過去に予測を間違った経験が活かせない。私たちは、不幸が自分の人生に影響をおよぼす時間の長さをものすごく過大評価する。

黒い白鳥のせいで、自分が予測の誤りに左右されるのがわかっており、かつ、ほとんどの「リスク測度」には欠陥があると認めるなら、とるべき戦略は、可能な限り超保守的かつ超積極的になることであり、ちょっと積極的だったりちょっと保守的だったりする戦略ではない。

お勧めの行動には一つ共通したところがある。非対称性だ。有利な結果の方が不利な結果よりもずっと大きい状態に自分を置くのである。未知なものがわかることは決してない。定義によって未知は未知だからだ。でも、そんな未知でも、自分にどんな影響を与えるかを推し量ることはできる。

結局、私たちは歴史に振り回されている。それなのに、私たちは自分で自分の行き先を決めていると思い込んでいる。私たちには何が起こっているか分からないのはなぜか、まとめておく。(a)知識に関するうぬぼれのせいで、未来を見るのに不自由だから。(b)プラトン的な型のせい。つまり、人は簡略化したものにだまされる。(c)欠陥のある推論の道具のせい

読書履歴:ブラック・スワン(上) 不確実性とリスクの本質 / ナシーム・ニコラス・タレブ

ブラックスワン(上)

2016年8月14日読了。

内容・感想まとめ

予測も出来ない不確実な事象、見えないリスクに対する人間の思考には根本的な欠陥があり、欠陥の上に成り立つ既存の学問はそういった「黒い白鳥」の前では無力であるということを、哲学、心理学、統計学、経済学、身の回りに起こる様々な事例などを通じて批判。

著者がトレーダーであることから、経済学、ビジネス書に分類されることが多い印象だが、どちらかというと、哲学、あるいはエッセー的なモノに分類しても良いかもしれない。とにかく文体が口語的で、読者が色々知っていることを前提で書かれているような砕けた文体であるため、慣れるまでに時間を要する。3回位挫折して、盆休みでやっと読み切った。

人にとって、意思決定を行う際に「知っていることがすべて」に陥りがちである、という点で先日読んだ『ファスト&スロー』と重なる部分が多い、と思っていたら上巻の後半でダニエル・カーネマンの名前が何度か出てきており、同じテーマについて、哲学的にアプローチしているのが本書、心理学的にアプローチしているのがダニエル・カーネマン、と言ってもいいのかも知れない。両方読んでみると理解がすすむ。

 

マーカー引いた所(引用・抜粋)

この本で黒い白鳥と言ったら、それはほとんどの場合、次の三つの特徴を備えた事象を指す。第一に、異常であること。つまり、過去に照らせば、そんなことが起こるかもしれないとはっきり示すものは何もなく、普通に考えられる範囲の外側にあること。第二に、とても大きな衝撃があること。そして第三に、異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こってから適当な説明をでっちあげて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりすること。

私たちは細かい論理の誤りに弱い。私たちは一所懸命に集中していないと、気付かないうちに問題を単純化してしまいがちである。私たちの頭は私たちが知らない間に四六時中そんなことをやっているからだ。

私たちの反応や思考や直感は、ものごとがどんな文脈で現れるか、つまり進化心理学者がものごとや事象の「領域」と呼ぶもので大きく左右される。情報が与えれらると、私たちは論理ではなく、その情報を囲む枠組みと、それが私たちの社会・情緒システムにどんな影響を与えるかにもとづいて反応を決める。

裏付けになる事実をいくら集めても証拠になるとは限らない。白い白鳥をいくら見ても黒い白鳥がいないことの証拠にはならない。(中略)反証を積み重ねることで、私たちは真理に近づける。裏付けを積み重ねてもダメだ!観察された事実から一般的な法則を築くと間違いやすい。

裏付けばかり探してしまうという私たちの生まれつきの傾向を認知科学者たちが研究している。彼らはこの、裏付けを求めて犯す誤りに弱い私たちの傾向を、追認バイアスと呼んでいる。(中略)哀しいことに、裏付けを求めるのは私たちの頭に組み込まれた習性であり、私たちのものの考え方なのだ。

私たちには特定の分野でだけ帰納的な推論を行なうよう巧妙に仕組まれた本能を生まれつき持っていて、それが私たちを導いてくれるようだ。偉大なデイビッド・ヒュームとイギリスの経験主義の伝統は、信念は習慣から生まれるっと主張している。人間は経験や実証的観察だけにもとづいて一般化を行うと彼らは仮定している。でも、実はそうではない。子供の行動を研究した結果によると、私たちの頭に生まれつき備え付けられている装置は、経験を選んで一般化する。

私たちは講釈が好きだ。私たちは要約するのが好きで、単純化するのが好きだ。ものごとの次元を落とすのが好きなのである。(中略)講釈の誤りは、連なった事実を見ると、何かの説明を織り込まずにはいられない私たちの私たちの習性に呼び名をつけたものだ。一連の事実に論理的なつながり、あるいは関係を示す矢印を無理やりあてはめることと言ってもいい。説明をすれば事実動詞を結びつけることができる。そうすれば事実がずっと簡単に覚えられるし、わかりやすくなる。私たちが道を踏み誤るのは、この性質のせいでわかった気になるときだ。

意図せず何かをせず、「初期設定」に任せていると、私たちは自然に理論化を行う。事実を見て、判断を控えて説明をつけずにいるのには大変な努力がいる。そして、この理論化という病気を抑えるのは困難だ。この病気は私たちの身体に取り憑いていて、生理の一部になっている。だから、この病気と闘うことは自分自身と闘うということだ。

生の情報よりもパターンのほうが小さくまとめられる。(中略)私たち霊長類ヒト科のメンバーは、いつも法則に飢えている。ものごとの次元を落として頭に収まるようにしないといけないからだ。あるいはむしろ、哀しいことに、ものごとを頭にむりやり押し込むのかもしれない。情報がランダムであればあるほど次元は高くなり、要約するのが難しくなる。要約すればするほど、当てはめる法則は強くなり、でたらめでなくなる。そんな仕組みが一方で私たちに単純化を行わせ、もう一方で私たちに世界が実際よりもたまたまでないと思い込ませる。

私たちは起承転結のある話に沿って記憶を集め、無意識のうちにいやおうなしに記憶を書き換えていく。その後起こったことに照らして、論理的に意味が通ると思う筋に合わせて講釈を作り直す。

講釈の誤りという病を避けるには、物語よりも実験を、歴史よりも経験を、理論よりも臨床的知識を重んじることだ。実証主義だからといって、家の地下室に実験室をつくらないといけないわけではない。ある種の知識をほかの種類の知識より重んじる心がけができていればいい。

私たちの情報の仕組は、因果が線形である場合向けに設計されている。たとえば、毎日勉強すれば、勉強量に比例して何かが身につくだろうと期待する。どこかへ向かっている感覚がないと、情緒が働いてやる気をなくさせようと期待する。どこかへ向かっている感覚がないと、情緒が働いてやる気をなくさせようとする。

歴史とは、後から起こったことの効果を合わせて見た一連の事象のことである。(中略)歴史の理論をでっちあげながら墓場から目をそらすのはとても簡単だ。でも、そういう問題があるのは歴史に限らない。標本をつくったり証拠を集めたりするなら、どんな分野でも当てはまる。こういうこじつけをバイアスと呼ぶことにする。つまり、私たちの目に入るものと、実際にそこにあるものの違いがバイアスだ。

成功を理解し、何が成功をもたらしたかを分析するためには、失敗例の特徴も研究しないといけない。

安定性の幻想だ。このバイアスのせいで、私たちは過去に自分がとってきたリスクを実際よりも低く感じてしまう。そんなリスクをかいくぐって生き延びた運のいい人たちはとくにそうだ。死ぬかもしれない本当に危ない目に遭い、それでもなんとか生き延びて、それを後から振り返ると、どれだけ危ない状況だったのかを過小評価してしまう。

私たちは強がりでリスクをとるのではなくて、何も知らないから、そして確率を見るのに不自由だからリスクをとるのだ。(中略)私たちがたまたま今日までこうして生きながらえたからといって、今後も同じリスクをとり続けるべきだということにはならない。

私たちには黒い白鳥が見えない。私たちは起こってしまったことを心配し、起こるかもしれないが起こらなかったことは心配しない。だからこそ私たちはプラトン化する。知っている図式やよく整理された知識を好む。そうやって現実を見るのに不自由になる。だからこそ私たちは帰納の問題に陥り、追認の誤りを犯す。だからこそ、よく「お勉強」して学校の成績がよかった連中ほど、お遊びの誤りのカモになる。

今の型番の人類は、抽象的なことがわかるようにはできていない。文脈がないと私たちにはわからない。ランダム性や不確実性は抽象的だ。私たちは、起ったことには敬意を払い、起こるかもしれなかったことはそっちのけだ。言い換えると、私たちは生まれつき浅はかで中身が薄い。

知識に関するうぬぼれには二つの効能がある。私たちは、不確実な状態がとりうる範囲を押し縮めて、自分が知っていることは課題に見積もり、不確実性は過少に見積もる。(中略)私たち人類は、未来が最初に思い描いた筋から外れていく可能性を慢性的に小さく見積もってしまう。

「専門家」の一般的な欠点を詳しく見ていこう。彼らは不公平な勝負をしている。自分がたまたま当たったときは、自分はよくわかっているからだ、自分には能力があるからだと言う。自分が間違っていたときは、異常なことが起こったからだと言って状況のせいにするか、もっと悪くすると、自分が間違っていたことさえわからずに、また講釈をたれてはしたり顔をする。自分がちゃんとわかっていなかったんだとは、なかなか認めない。(中略)まぐれを認識するとき、私たちは場合によって違う要素のせいにする。人間はそんな非対称性に振り回される犠牲者なのだ。うまく行けば自分の能力のおかげだと思い、失敗すれば自分ではどうにもできない外生的な事象、つまりまぐれのせいにする。いいことには責任を感じるけれど、悪いことには感じない。

予想外の出来事は計画に対して一方的にだけ影響を及ぼす。予期しない出来事の力は、ほとんど常に一方向にだけ働く。完成するのにコストや時間は大きくなる一方だ。(中略)私たちの種は了見が狭すぎて、頭で考えられる予想の範囲を外れたことが起こるなんて可能性は考慮できない。それに焦点を強く絞ってしまうから、視野の外の不確実性、つまり「未知の未知」に思いをはせることもできない。

私たちは基準点を使って考える。たとえば売上高の予測をたたき台にして、そのまわりに信念を積み上げる。アイディアを独立に評価するより、基準点と比較して評価した方が頭を使わずにすむ。何か比べるものがないと、私たちは考えることすらままならない。

企業や政府が行う予測には、もう一つ簡単にわかる手落ちがある。彼らのシナリオには、誤差率、つまりありうる間違いの割合が一緒に示されていないのだ。黒い白鳥なんていなかったとしても、それを無視するのは間違いである。

読書履歴:ピクサー流 創造するちから―小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法 / エド・キャットムル

ピクサー流創造するちから 2016年8月9日読了。

内容・感想まとめ

ピクサー創業者であり、ディズニーアニメーションスタジオの代表をも務めるエド・キャットムルが、ピクサー創業からスティーブ・ジョブズとの出会いを経てディズニー傘下に入り、「ラプンツェル」や「アナ雪」のヒットに代表されるディズニーアニメーションの再生を果たすまでの時間軸に沿って、経営者として大事にしてきた組織運営、マネジメントに関わる考え方、方針をまとめた本。

「創造的で、かつ、持続可能な組織」という著者が創業以来常に追い続けてきた有るべき会社組織を創り上げるまでの著者の苦闘、創造と破壊の歴史、および、著者の組織運営・マネジメントに対する考え方と、それを実現したピクサーが取り入れて来た仕組みが本筋の話。だが、ピクサーが手掛ける「トイ・ストーリー」や「モンスターズ・インク」といった誰もが知るアニメの制作秘話、ベンチャー企業が陥る創業時の混沌・資金繰りの苦労話・事業のピポット、あまり取りざたされないスティーブ・ジョブズの人間味あふれる一面、などなど、脇を彩るエピソードの数々だけでも一冊の本が書けそうなほど、心躍るストーリーにあふれる。

元々、工学系の学者タイプのバックボーンを持つ著者らしく、経営者の著書にありがちな主観的・感情的に記述に陥ることなく、客観的・論理的に考えがのべられており、華やかなアニメーション制作の挿話と絶妙なコントラストを生んでいる。

ディズニーによる買収を経て、いわゆる大企業病に罹る兆候を察した経営陣が、それを打破すべく大きな一手を打ち、大成功を収め、再び社員一丸となって真に創造的な企業として走り出までの何かが変わり、動き出すまでのワクワク感と、その土台をつくり庇護者となったスティーブ・ジョブズとの別れを描いた終盤は、さすがピクサーのストーリー!と思わせるほど、ページを繰る手が止まらず、読んでいてアツいモノが込み上げて来る展開。

今年読んだ本の中でベスト。何度も読み返したくなる一冊。

 

マーカー引いた所(引用・抜粋)

私が思うマネジャーとしての自分の仕事は、豊かな環境をつくり、それを健全に維持し、それを妨げるものに目を光らせることだ。誰にでも創造性を発揮できるポテンシャルがあり、それがどのようなかたちであれ花開くのを後押しすることは心底尊いことだと思う。

マネジャーは、手綱を引き締めるのではなく、緩めなければいけないと思う。リスクを受け入れ、部下を信頼し、彼らが仕事をしやすいように障害物を取り除く。そしてつねに、人に不安や恐怖を与えるものに注意を払い、向き合う。それはマネジャーの義務だ。

困難な問題には、多くの知性を同時に集結して解決にあたったほうがいい。それを認めないのはばかげている。

無知と、旺盛な成功欲求との組み合わせ以上に、短期間での学習を促すものはない。

誰かが製造ラインに問題を見つけたら、それがどの階層の人であろうと、組み立てラインを止めるべきであり、それを認められるべきだ(中略)作業者は、同じ作業をただ繰り返すのではなく、変更を提案したり、問題点を指摘したり、そして私にはこれが何より重要だと思われたのだが、壊れた箇所を直す役に立ったときに誇りを感じることができた。それが継続的な改善につながり、欠陥を洗い出し、品質を向上させた。(中略)トヨタ自動車は紛れもない階層組織だが、その中心には民主的な信条があった。つまり、責任を持つことに許可はいらないのだ。

私がそれまでピクサーが成功してきた理由だと思っていたことの中に、後で勘違いだとわかったことがいくつかあったが、間違いようのないことが一つあった。それは、持続する創造的な起業文化を築く方法を見つけること ――率直さ、卓越紗、コミュニケーション、独自性、自己評価といったものが重要だと口先で言うのではなく、それがどれほど不快な思いを伴っても、それを有言実行すること―― は、片手間ではできない。日々努力のいるフルタイムの仕事だ。

イデアをきちんとかたちにするには、第一にいいチームを用意する必要がある、優秀な人材が必要だというのは簡単だし、実際に必要なのだが、本当に重要なのはそうした人同士の相互作用だ。どんなに頭のいい人たちでも相性が悪ければ無能なチームになる。したがって、チームを構成する個人の才能ではなく、ちーむとしてのパフォーマンスに注目したほうがいい。メンバーが互いを補完し合うのがよいチームだ。

品質のよさを表す「卓越性」は、自分で自分のことを言うのではなく、人から言われるべき言葉だ。言葉がきちんとその意味どおりに、それが象徴する理想どおりに使われていることを確認するのはリーダーの仕事だ。

「品質は、最良のビジネスプランである」。品質は、行動の結果ではなく、どう行動するかを決める前提条件であり心の持ちようだ。品質が大事だと誰もが言うが、言う前に実行すべきだ。品質は日常の一部であり、考え方であり、生き方であるべきだ。

何を吟味するかによって規模や目的が異なるが、つねになくてはならない要素が率直さだ。絵に描いた餅ではだめで、率直な議論という批評的な要素なしでは、信頼は生まれない。そして信頼なしでは創造的な共同作業はできない。

失敗は、対処のしかた次第で成長するチャンスになる。ただ、そういうと、まちがいは必要悪だととられる。まちがいは必ずしも悪ではない。悪でもなんでもない。まちがいは、新しいことを試みたすえの当然の結果だ。けれども、失敗を受け入れることが学習において重要だといくら言っても、それを認識するだけでは不十分なこともわかっている。なぜなら失敗は苦痛を伴い、それが失敗の価値を理解する妨げとなっているからだ。失敗のいい点と悪い点を分けて考えるためには、苦痛という現実と、その結果として得られる成長というメリットの両方を認識する必要がある。(中略)恐れから失敗を避けようとする組織文化では、社員は意識的にも無意識的にもリスクを避ける。そして代わりに、過去にやって合格点だった安全なことを繰り返し行おうとする。その成果は派生的なものであり、革新的なものではない。けれども、失敗のプラスの側面を理解できるようになれば、逆のことが起こる。

新しい試みを恐れる人も多いが、本当はその逆のアプローチをとるほうがはるかに怖い。リスク回避も度を過ぎると、企業の変革を止め、新しいアイディアの拒絶につながる。それは見当違いのはじまりだ。企業が落ち目になるのはほとんどそのためであって、限界に挑戦したり、リスクを負ったり、失敗を恐れなかったからではない。失敗する可能性のある事に取り組むのが、本当に創造的な起業なのだ。

社員は賢い。だから雇ったはずだ。だったらそれらしく扱おう。歪曲された不正直なメッセージは見破られる。上司が計画だけ説明して理由を説明しなければ、部下は本当の意図は何かと怪しむ。隠れた意図はなくてもそう思わせているということだ。どのような思考プロセスで解決策に至ったのかを説明すれば、部下は、憶測ではなく解決策そのものに注意を向ける。

問題を一つ残らず防ごうとするのではなく、スタッフの善意を信じ、彼らが問題を解決したいと思っていると信じるべきだ。実際に、そう思っている場合がほとんどなのだから。責任を与え、失敗させ、自ら解決させる。恐れには必ず理由がある。リーダーの仕事はその理由を見つけて対処することだ。マネジメントの仕事は、リスクを防止することではなく、立ち直る力を育てることなのだ。

不健全な組織文化では、自部門の目的が他部門の目的に勝れば、会社はもっと儲かると思っている。健全な組織文化では、相対するニーズ間のバランスが重要なことを全部門が認識している。部門間の相互作用 ―――優秀な社員が明確な目標を与えられたときに自然発生する駆け引き――― がそのバランスを生み出す。しかしそれは、バランスの実現が会社にとって重要な目標であることを理解して初めて起こる。(中略)対立するのは健全なことだと社員に理解させるのは、マネジメントの仕事だ。それがバランスを実現させる道であり、長い目で見て皆の利益につながる。

「見えないものを解き明かし、その本質を理解しようとしない人は、リーダーとして失格である。(中略)自分が見て知っていることが不完全だと認めるならば、その認識を高める努力をするべきだろう。ギャップを埋める努力、と言ってもいい。

本来は効果的であるはずの階層制度が、進歩を妨げるものに変わってしまうきっかけは何か。それは、自分や他人の価値を無意識に序列の上下と同一視する人が増えたときにそうなる。そのため、上司の心証をよくすることに全精力を注ぎ、組織図上自分より下の人には扱いがぞんざいになる。(中略)人は自分が実際に見ている以上に見えていると思っているため、自分で自分の視界を歪ませていることに気が付いていない。

初心を捨てることで、人は何か新しいものを作り出すよりも、前にやったことを繰り返すようになる。言い換えれば、失敗を避けようとして失敗しやすくなる。過去や未来に関する自分の思いや考え方に邪魔されることなく、この瞬間に注意を向けることが重要だ。なぜかと言うと、それによって人の意見の入る余地が出来るからだ。人の意見を信頼できるようになり、さらに重要なことに、それが聞けるようになる。

創造する企業のマネージャーは、「そうすれば社員の知恵を生かせるか」つねに自分に問う必要がある。(中略)創造的な仕事をする人は、挑戦が決して終わらないこと、失敗は回避できないこと、「ビジョン」が多くの場合幻想であることを受け入れなければならない。しかし小津時に、つねに安心して本音を話せると感じられることも必要だ。

物事は変わるべくしてつねに変わっている。変化に伴って必要になるのが、適応であり、新鮮な考えかたであり、ときにはプロジェクトや部署や部門や会社全体の完全な「再起動」だ。

未来は到達点ではなく一つの方向だ。だから正しい進路を決めるために日々努力し、間世田ら修正するのが我々の仕事だ。もう次の危機がそこの角まで来ているのを感じる。活気に満ちた創造的な文化を維持するためには、一定の不確実性を恐れてはならない。天候を受け入れるように、それを受け入れなければならない。不確実性と変化は、人生につきものであり、そこが楽しいところでもある。取り組むべき課題が現れれば、必ずまちがいはまた発生する。それが現実だ。我々の仕事に終わりはない。問題はつねに起こり、その多くは隠れて見えない。それらを明るみに出し、たとえそれによって葛藤が生まれようとも、その多くは隠れて見えない。それらを明るみに出し、たとえそれによって葛藤が生まれようとも、それらの問題における自分の役割・責任を問わなければならない。(中略)社員に創造性を発揮させるためには、我々がコントロールを緩め、リスクを受け入れ、社員を信頼し、彼らの行く手を阻むものを取り除き、不安や恐怖をもたらすあらゆるものに注意を払わなければならない。これらをすべて実践しても創造的な組織文化を管理することは必ずしも楽なことではない。けれども、目指すべきは楽になることではなく、卓越することなのだ。