読書履歴:ブラック・スワン(上) 不確実性とリスクの本質 / ナシーム・ニコラス・タレブ

ブラックスワン(上)

2016年8月14日読了。

内容・感想まとめ

予測も出来ない不確実な事象、見えないリスクに対する人間の思考には根本的な欠陥があり、欠陥の上に成り立つ既存の学問はそういった「黒い白鳥」の前では無力であるということを、哲学、心理学、統計学、経済学、身の回りに起こる様々な事例などを通じて批判。

著者がトレーダーであることから、経済学、ビジネス書に分類されることが多い印象だが、どちらかというと、哲学、あるいはエッセー的なモノに分類しても良いかもしれない。とにかく文体が口語的で、読者が色々知っていることを前提で書かれているような砕けた文体であるため、慣れるまでに時間を要する。3回位挫折して、盆休みでやっと読み切った。

人にとって、意思決定を行う際に「知っていることがすべて」に陥りがちである、という点で先日読んだ『ファスト&スロー』と重なる部分が多い、と思っていたら上巻の後半でダニエル・カーネマンの名前が何度か出てきており、同じテーマについて、哲学的にアプローチしているのが本書、心理学的にアプローチしているのがダニエル・カーネマン、と言ってもいいのかも知れない。両方読んでみると理解がすすむ。

 

マーカー引いた所(引用・抜粋)

この本で黒い白鳥と言ったら、それはほとんどの場合、次の三つの特徴を備えた事象を指す。第一に、異常であること。つまり、過去に照らせば、そんなことが起こるかもしれないとはっきり示すものは何もなく、普通に考えられる範囲の外側にあること。第二に、とても大きな衝撃があること。そして第三に、異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こってから適当な説明をでっちあげて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりすること。

私たちは細かい論理の誤りに弱い。私たちは一所懸命に集中していないと、気付かないうちに問題を単純化してしまいがちである。私たちの頭は私たちが知らない間に四六時中そんなことをやっているからだ。

私たちの反応や思考や直感は、ものごとがどんな文脈で現れるか、つまり進化心理学者がものごとや事象の「領域」と呼ぶもので大きく左右される。情報が与えれらると、私たちは論理ではなく、その情報を囲む枠組みと、それが私たちの社会・情緒システムにどんな影響を与えるかにもとづいて反応を決める。

裏付けになる事実をいくら集めても証拠になるとは限らない。白い白鳥をいくら見ても黒い白鳥がいないことの証拠にはならない。(中略)反証を積み重ねることで、私たちは真理に近づける。裏付けを積み重ねてもダメだ!観察された事実から一般的な法則を築くと間違いやすい。

裏付けばかり探してしまうという私たちの生まれつきの傾向を認知科学者たちが研究している。彼らはこの、裏付けを求めて犯す誤りに弱い私たちの傾向を、追認バイアスと呼んでいる。(中略)哀しいことに、裏付けを求めるのは私たちの頭に組み込まれた習性であり、私たちのものの考え方なのだ。

私たちには特定の分野でだけ帰納的な推論を行なうよう巧妙に仕組まれた本能を生まれつき持っていて、それが私たちを導いてくれるようだ。偉大なデイビッド・ヒュームとイギリスの経験主義の伝統は、信念は習慣から生まれるっと主張している。人間は経験や実証的観察だけにもとづいて一般化を行うと彼らは仮定している。でも、実はそうではない。子供の行動を研究した結果によると、私たちの頭に生まれつき備え付けられている装置は、経験を選んで一般化する。

私たちは講釈が好きだ。私たちは要約するのが好きで、単純化するのが好きだ。ものごとの次元を落とすのが好きなのである。(中略)講釈の誤りは、連なった事実を見ると、何かの説明を織り込まずにはいられない私たちの私たちの習性に呼び名をつけたものだ。一連の事実に論理的なつながり、あるいは関係を示す矢印を無理やりあてはめることと言ってもいい。説明をすれば事実動詞を結びつけることができる。そうすれば事実がずっと簡単に覚えられるし、わかりやすくなる。私たちが道を踏み誤るのは、この性質のせいでわかった気になるときだ。

意図せず何かをせず、「初期設定」に任せていると、私たちは自然に理論化を行う。事実を見て、判断を控えて説明をつけずにいるのには大変な努力がいる。そして、この理論化という病気を抑えるのは困難だ。この病気は私たちの身体に取り憑いていて、生理の一部になっている。だから、この病気と闘うことは自分自身と闘うということだ。

生の情報よりもパターンのほうが小さくまとめられる。(中略)私たち霊長類ヒト科のメンバーは、いつも法則に飢えている。ものごとの次元を落として頭に収まるようにしないといけないからだ。あるいはむしろ、哀しいことに、ものごとを頭にむりやり押し込むのかもしれない。情報がランダムであればあるほど次元は高くなり、要約するのが難しくなる。要約すればするほど、当てはめる法則は強くなり、でたらめでなくなる。そんな仕組みが一方で私たちに単純化を行わせ、もう一方で私たちに世界が実際よりもたまたまでないと思い込ませる。

私たちは起承転結のある話に沿って記憶を集め、無意識のうちにいやおうなしに記憶を書き換えていく。その後起こったことに照らして、論理的に意味が通ると思う筋に合わせて講釈を作り直す。

講釈の誤りという病を避けるには、物語よりも実験を、歴史よりも経験を、理論よりも臨床的知識を重んじることだ。実証主義だからといって、家の地下室に実験室をつくらないといけないわけではない。ある種の知識をほかの種類の知識より重んじる心がけができていればいい。

私たちの情報の仕組は、因果が線形である場合向けに設計されている。たとえば、毎日勉強すれば、勉強量に比例して何かが身につくだろうと期待する。どこかへ向かっている感覚がないと、情緒が働いてやる気をなくさせようと期待する。どこかへ向かっている感覚がないと、情緒が働いてやる気をなくさせようとする。

歴史とは、後から起こったことの効果を合わせて見た一連の事象のことである。(中略)歴史の理論をでっちあげながら墓場から目をそらすのはとても簡単だ。でも、そういう問題があるのは歴史に限らない。標本をつくったり証拠を集めたりするなら、どんな分野でも当てはまる。こういうこじつけをバイアスと呼ぶことにする。つまり、私たちの目に入るものと、実際にそこにあるものの違いがバイアスだ。

成功を理解し、何が成功をもたらしたかを分析するためには、失敗例の特徴も研究しないといけない。

安定性の幻想だ。このバイアスのせいで、私たちは過去に自分がとってきたリスクを実際よりも低く感じてしまう。そんなリスクをかいくぐって生き延びた運のいい人たちはとくにそうだ。死ぬかもしれない本当に危ない目に遭い、それでもなんとか生き延びて、それを後から振り返ると、どれだけ危ない状況だったのかを過小評価してしまう。

私たちは強がりでリスクをとるのではなくて、何も知らないから、そして確率を見るのに不自由だからリスクをとるのだ。(中略)私たちがたまたま今日までこうして生きながらえたからといって、今後も同じリスクをとり続けるべきだということにはならない。

私たちには黒い白鳥が見えない。私たちは起こってしまったことを心配し、起こるかもしれないが起こらなかったことは心配しない。だからこそ私たちはプラトン化する。知っている図式やよく整理された知識を好む。そうやって現実を見るのに不自由になる。だからこそ私たちは帰納の問題に陥り、追認の誤りを犯す。だからこそ、よく「お勉強」して学校の成績がよかった連中ほど、お遊びの誤りのカモになる。

今の型番の人類は、抽象的なことがわかるようにはできていない。文脈がないと私たちにはわからない。ランダム性や不確実性は抽象的だ。私たちは、起ったことには敬意を払い、起こるかもしれなかったことはそっちのけだ。言い換えると、私たちは生まれつき浅はかで中身が薄い。

知識に関するうぬぼれには二つの効能がある。私たちは、不確実な状態がとりうる範囲を押し縮めて、自分が知っていることは課題に見積もり、不確実性は過少に見積もる。(中略)私たち人類は、未来が最初に思い描いた筋から外れていく可能性を慢性的に小さく見積もってしまう。

「専門家」の一般的な欠点を詳しく見ていこう。彼らは不公平な勝負をしている。自分がたまたま当たったときは、自分はよくわかっているからだ、自分には能力があるからだと言う。自分が間違っていたときは、異常なことが起こったからだと言って状況のせいにするか、もっと悪くすると、自分が間違っていたことさえわからずに、また講釈をたれてはしたり顔をする。自分がちゃんとわかっていなかったんだとは、なかなか認めない。(中略)まぐれを認識するとき、私たちは場合によって違う要素のせいにする。人間はそんな非対称性に振り回される犠牲者なのだ。うまく行けば自分の能力のおかげだと思い、失敗すれば自分ではどうにもできない外生的な事象、つまりまぐれのせいにする。いいことには責任を感じるけれど、悪いことには感じない。

予想外の出来事は計画に対して一方的にだけ影響を及ぼす。予期しない出来事の力は、ほとんど常に一方向にだけ働く。完成するのにコストや時間は大きくなる一方だ。(中略)私たちの種は了見が狭すぎて、頭で考えられる予想の範囲を外れたことが起こるなんて可能性は考慮できない。それに焦点を強く絞ってしまうから、視野の外の不確実性、つまり「未知の未知」に思いをはせることもできない。

私たちは基準点を使って考える。たとえば売上高の予測をたたき台にして、そのまわりに信念を積み上げる。アイディアを独立に評価するより、基準点と比較して評価した方が頭を使わずにすむ。何か比べるものがないと、私たちは考えることすらままならない。

企業や政府が行う予測には、もう一つ簡単にわかる手落ちがある。彼らのシナリオには、誤差率、つまりありうる間違いの割合が一緒に示されていないのだ。黒い白鳥なんていなかったとしても、それを無視するのは間違いである。