読書履歴:〈新版〉日本語の作文技術 / 本多勝一

 

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2016年10月10日読了。

内容・感想まとめ

トレタさんのブログで『これさえ読めば誰でも「わかりやすい文章」が書ける!かもしれないと紹介されていたのに惹かれて衝動買い。

英語など言語とは異なり、日本語は述語が文章の中心となる言語であるという主張を軸に、述語をいかにスムーズに読ませるかという文章構成のノウハウ・テクニックを「修飾語の順序」「句読点の位置」など九つの章にわたって解説。

読みにくい文章を「翻訳」的文章であるとし、文章の主体がSVである英語やフランス語からそうでない日本語にそのまま訳した場合や、著者の日本語能力の稚拙さによって読者に「翻訳」を求める場合などを例示。

Webサイトに載せる文章や提案書などの読ませる文章を書くことが多く、また、文章を書いているうちに言葉の語順や句読点の位置に迷うことが多くなる自分にとって「こう考えればいいのか」という示唆を与えてくれる一冊。

一部、例文や用語に原著の古さを感じるが、考え方自体は理路整然としてまったく古さを感じない。定期的に読み返して血肉としたい本。

マーカー引いた所(引用・抜粋)

わかりにくい文章の実例を検討してみると、最も目につくのは、修飾する言葉とされる言葉とのつながりが明白でない場合である。原因の第一は、両者が離れすぎていることによる。

修飾語の語順には四つの原則があり、重要な順に並べるとそれは次の通りである。 ①節を先に、句をあとに。 ②長い修飾語ほど先に、短いほどあとに。 ③大状況・重要内容ほど先に。 ④親和度(なじみ)の強弱による配置転換。

符号の中でも決定的に重要で、かつ用法についても論ずべき問題が多いのはテンの場合である。

「わかりやすい文章のために必要なテンの原則」(構文上の原則)をまとめて列挙しておく。 第一原則 長い修飾語が二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ。(重文の境界も同じ原則による。) 第二原則 原則的語順が逆順の場合にテンをうつ。 右の二大原則のほかに、筆者の考えをテンにたくす場合として、思想の最小単位を示す自由なテンがある。

構文上高次元のテン(文のテン)を生かすためには低次元のテン(節のテン)は除く方がよい。もしどうしても節のテンが必要になったときは、語順を変形して入れ子をはずせば解決する。

漢字とカナを併用するとわかりやすいのは、視覚としての言葉の「まとまり」が絵画化されるためなのだ。ローマ字表記の場合の「わかち書き」に当たる役割を果たしているのである。

漢字とカナの併用にこのような意味があることを理解すれば、どういうときに漢字を使い、どういうときに使うべきでないかはおのずと明らかであろう。たとえば「いま」とすべきか「今」とすべきかは、その置かれた状況によって異なる。前後に漢字がつづけば「いま」とすべきだし、ひらがなが続けば「今」とすべきである。

送りがなというものは、極論すれば各自の趣味の問題だと思う。ひとつの法則で規定しても無理が出てくる。あまり送らない傾向の人は全文を常にそうすべきであり、送りたい趣味の人は常に送るべきである。「住い」を「すまい」と読ませたり、「始る」を「はじまる」と読ませるのは、読者に一種の翻訳を強制することになりがちだ。やはり「住まい」「始まる」としたい。

文は長ければわかりにくく、短ければわかりやすいという迷信がよくあるが、わかりやすさと長短とは本質的には関係がない。問題は書き手が日本語に通じているかどうかであって、長い文はその実力の差が現れやすいために、自信のない人は短い方が無難だというだけのことであろう。

段落のいいかげんな文章は、骨折の重傷を負った欠陥文章といわなければならぬ。改行は必然性をもったものであり、勝手に変更が許されぬ点、マルやテンと少しも変わらない。

おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいときであって、書く人が いかにおもしろく思っているかを知っておもしろがるのではない。美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者がいくら「美しい」と感嘆しても何もならない。美しい風景自体は決して「美しい」とは叫んでいないのだ。その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない。

本を読むとき音読する人はほとんどいないけれど、しかし目で活字を追いながらも人は無意識にリズムを感じ取っているのだ。そうであれば、書く側がリズムにあわせて書かなければ読者の気分を乱すことになる。