読書履歴:ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? / ダニエル・カーネマン

ファスト&スロー(下)

2016年7月30日読了。

内容・感想まとめ

認知的錯覚の状態を、「システム1とシステム2」「エコン(経済人)とヒューマン」「経験する自己と記憶する自己」の3つの概念の二項対立を軸に据えて説明する本書は、上巻を「システム1とシステム2」の説明に割き、下巻は「エコン(経済人)とヒューマン」「経験する自己と記憶する自己」それぞれの対立について解説。

ノーベル経済学賞受賞者らしく、合理的経済人(エコン)に基づいた経済学を心理学的見地から批判。上巻に比べると専門的な言葉が登場する頻度が高く、ちょっと難解。

マーカー引いた所(引用・抜粋)

認知主導的意思決定モデルには、システム1とシステム2の両方が関わっている。最初の段階では、連想記憶の自動運転すなわちシステム1により、試案が思い浮かぶ。次の段階ではこの試案がうまくいくかどうか、頭の中でシミュレーションを行う。この入念なプロセスは、もちろんシステム2の担当である。
「状況が手掛かりを与える。この手掛かりをもとに、専門家は記憶に蓄積されていた募集を呼び出す。そして情報が答えを与えてくれるのだ。直感とは、認識以上でもなければ以下でもない」
人々が自分の判断に自信を持つ時には、認知容易性と一貫性が重要な役割を果たしている。つまり、矛盾や不一致がなく頭にすらすら入ってくるストーリーは受け入れやすい。だが認知が容易でつじつまが合っているからといって、真実だという保証にはならない。連想マシンは疑いを押さえつけるようにできており、一番もっともらしく見えるストーリーにうまくはまる考えや情報だけを呼び出す仕組みになっている。「見たものがすべて」なので、自分の知らないことはないものとし、簡単に自信過剰になってしまう。こうして私たちの大半は、根拠のない直感にひどく自信を持つことになるわけだ。人々が自分の直感に対して抱く自身は、その妥当性の有効な指標とはなり得ない、という原則である。言い換えれば、自分の判断は信頼に値すると熱心に説く輩は、自分も含めて絶対に信頼するな、ということだ。
「くそおもしろくない」統計情報は、個人的な印象と一致しない限り、簡単にゴミ箱行きになりやすい。内部情報に基づくアプローチと対立する場合、外部情報に基づくアプローチに勝ち目はないのである。
「多くの人は過去の分布に関する情報を軽視または無視しがちであり、この傾向がおそらく予測エラーの主因だと考えられる。したがって計画立案者は、入手可能なすべての分布情報が十分に活用できるように、予測問題の枠組みを整える努力をしなければならない」
リスクを伴うプロジェクトの結果を予測するときに、意思決定者はあっけなく計画の錯誤を犯す。錯誤にとらわれると、利益、コスト、確率を合理的に勘案せず、非現実的な楽観主義に基づいて決定を下すことになる。利益や恩恵を過大評価してコストを過小評価し、成功のシナリオばかり思い描いて、ミスや計算ちがいの可能性は見落とす。その結果、客観的に見れば予算内あるいは納期内に収まりそうもないプロジェクト、予算収益を達成できそうもないプロジェクト、それどころか感性もおぼつかないプロジェクトにまい進することになってしまう。
計画の錯誤は、数ある楽観バイアスの一つにすぎない。私たちの大半は、世界を実際よりも安全で親切な場所だとみなし、自分の能力を実際よりも高いと思い、自分の立てた目標を実際以上に達成可能だと考えている。また自分は将来を適切に予測できると過大評価し、その結果として楽観的な自信過剰に陥っている。意思決定におよぼす影響としては、この楽観バイアスの中で最も顕著なものと言えるだろう。
チームがある決定に収束するにつれ、その方向性に対する疑念は次第に表明しにくくなり、しまいにはチームやリーダーに対する忠誠心の欠如とみなされるようになる。とりわけリーダーが、無思慮に自分の意向を明らかにした場合がそうだ。こうして懐疑的な見方が排除されると、集団内に自信過剰が生まれ、その決定の支持者だけが声高に意見を言うようになる。
人間も含めてあらゆる動物は、得をするより損を防ぐことに熱心である。(中略)組織改革を試みたときに起こりがちな顛末を、この原則で説明できるだろう。(中略)改革というものはまず必ず、全体としてみれば改善であっても、大勢の勝ち組をつくる一方で、一部に負け組を生む。だが改革で不利益を被る人たちが政治的な影響力を持っている場合、潜在的な負け組は潜在的な勝ち組よりも積極的に、かつ強い意志を持って、その影響力を行使する。すると結果的にはこの人たちに好都合な改革になり、当初の計画より費用は高く効果は低い、ということになりやすい。
八方塞がりになった人々が絶望的な賭けに出て、大損を免れる一縷の望みと引き換えに、高い確率で事態を一層悪化させる選択肢を受け入れる。対処可能だった失敗を往々にして大惨事に買えるのは、この種のリスクテークだ。確実な大損を受け入れるのはあまりに苦痛が大きく、それを完全に避けられるかもしれないという望みはあまりに魅力的である。その結果、起死回生の一手を打つしかないという決断に立ち至る。
「めったに起こりそうもない出来事は無視されるか、または過大な重みをつけられる」(中略)起こりそうもない結果に過大な重みをつけるのは、いまやおなじみになったシステム1の仕業である。感情と鮮明性は、流暢性、利用可能性、確率判断に影響をおよぼす。めったに起きないが無視できない出来事に私たちが過剰に反応するのは、これによって説明することができる。
プロスペクト理論に従えば、ギャンブルと確実な結果との選択は、結果が「よい」か「悪い」か次第で逆転する。意思決定者は、選択の結果がどちらも好ましい場合には、ギャンブルより確実性を好む傾向がある。つまり、リスク回避的になる。しかし、どう転んでも結果が悪いときには、ギャンブルを容認する。つまりリスク追求的になる。
私たちはたとえ重要な選択であっても、その表現や書式など、本質とは関係のない事柄に振り回される。これはじつに困ったことである。重要な意思決定をどうしたらちゃんと下せるとか、自分の頭の働きをどうやったら理解できるのか、といった問題はひとまず措こう。大事なのは、こうした認知的錯覚の存在を示す証拠は否定できないことである。
経験と記憶を混同するのは、強力な認知的錯覚である。これは一種の置き換えであり、すでに終わった経験も壊れることがありうる、と私たちに信じ込ませる。経験する自己には発言権がない。だから記憶する事故はときに間違いを犯すが、しかし経験したことを記録し取捨選択して意思決定を行う唯一の存在である。よって、過去から学んだことは将来の記憶の質を最大限に高めるために使われ、必ずしも将来の経験の質を高めるとは限らない。記憶する自己は独裁者である。
「人間は首尾一貫した選好を持ち合わせており、それを最大化すべく行動する」というのが合理的経済主体モデルの大前提であるが、実験データはこの前提に重大な疑義を呈したといえるだろう。私たちの脳は、それほど整合的なデザインになっていないのである。