読書履歴:プロフェッショナルマネジャー / ハロルド・ジェニーン

プロフェッショナルマネージャー

2016年6月30日読了。

内容・感想まとめ

副題に『58期連続増益の男』とあり、中間管理職的な”マネージャー”による、マネジメントやチームビルディングに関する本だと思って読んだら全くそんなことは無かった。要注意。

350社からなる一大コングロマリット・ITT社を創り上げた著者ハロルド・ジェニーン氏が、自身の経営に対する考えや経営者としての心構えを全14章・300ページ以上にわたって紹介。ありきたりな経営者による立身出世伝でもなければ、マネジメントに関するハウツー本でもない。経営学の様なロジックは全くないが、実績を伴った人による、言いようのない熱量と説得力を持った内容。

自分は経営者じゃないし、どうしたら良いか答えが欲しい、みたいなスタンスの人にはオススメ出来ない。それこそ、解説を書いているユニクロ・柳井社長のような、プロの経営者として圧倒的に突き抜けた実力をつけたい、実績をつくって世に名を残したい、そういう人が心の支えにするような本だと感じた。

マーカー引いた所(引用・抜粋)

ビジネスは科学ではない(中略)人生と同様に、どんなチェックリストにも方式にも完全にはおさめきれない、活力にあふれた流動的なものだ
本を読むときは、初めから終わりへと読む。ビジネスの経営はそれとは逆だ。終わりから始めて、そこへ到達するためにできる限りのことをするのだ。
現実的な確固とした目的を定めること、あるいは終わりから始めることのすばらしい点は、それ自体が、その目的に達するためになすべきことを示してくれ始めるところにある。
経験とはなにか新しいことを発見し、学び、能力の成長と蓄積をもたらすプロセスである。(中略)職業的経歴においてある点を越えると、金銭的報酬はさして重要ではない(中略)そこまでいくと、ひとはもう一度、仕事が与えてくれる経験へと立ち戻る。自己の気概を試す挑戦でもあり快事でもあり、楽しみでも誇りでもあるものへ、そして骨身を惜しまない勉励のみが提供できる自己達成の感覚へ回帰するのである。
危機や破局は一夜にして生ずるものではない。それは問題が長いあいだ隠ぺいされ、症状が悪化するままに放置されてきた結果である。
会社が最高経営者によって定められたゴールに向かって突進する一つのチームとして行動するように、組織図に含まれるすべての人々を、共同一致して機能させ、何よりも肝要な、緊密な人間関係によって結束させた時に、初めて真の経営は始まる。
私の関心があるのは、責任者を譴責することではなくて、当面の問題を解決することだ(中略)われわれは問題の関係者に審判をくだすことより、問題を解決し、非能率をなくすことに関心があるのだということを、彼らは悟った。
間違いをしたり、たまに過失を犯したりするのは恥でも不真面目でもないと私は本気で言っている(中略)重要なのは自己の過失に立ち向かい、それらを吟味し、それから学び、自己のなすべきことをするのだ。唯一の本当の間違いは、間違いを犯すことを恐れることである。
事実を客観的に眺めることは、経営成功を収める最も重要な条件のひとつだ。人々が意思決定を謝るのは、その決定が、入手した事実についての不適切な知識に基づいたものである場合が最も多い。
われわれが吟味した”事実”の中には、つぎの様なものがあった。「表面的な事実(一見事実と見える事柄)」「仮定的な事実(事実とみなされている事柄)」「報告された事実(事実として報告されたこと)」「希望的事実(願わくば事実で合って欲しい事柄)」(中略)たいていの場合、これらはぜんぜん事実ではない。(中略)”事実ではない事実”のために、マネジメント全体の物事や意思決定の流れが間違った方向に向けられて、計り知れぬ金と時間と士気のロスをもたらす危険性がある
経営者は経営しなくてはならぬ! ”経営(する)”とはなにかをなし遂げること、マネジャーである個人なりマネジャーのチームなりが、努力するに値することとしてやり始めたことをやり遂げることだ。”しなくてはならぬ”とは、それをやり遂げなくてはならぬということだ。(中略)もしその結果を達成することができなければ、その人は経営者ではない。
経営の効験を測定するのは主観的な行為ではない。それは四半期または年度の終わりに、損益計算書によって測定される。その数字を見れば何が起こったか一目瞭然である。つまり、マネジメントは目標を達成したか、しなかったかのどちらかだ。
マネージャーは個々人が提出する”事実”を受取り、それらから偏見(自分の偏見も含む)をはぎ取り、物事の真の姿を見極めなければならない。(中略)企業のヒエラルキーの中で、低い地位にあればあるほど、自分の行動のよりどころとなる事実を確かめるのに多くの時間をかけることができるにも関わらず、なかなかそうしない。そして逆に、地位が高まり、大きな責任を託されるようになればなるほど、事実をゆっくりちぇっくしている時間がなくなるにもかかわらず、そうすることはますます重要になる。
どれほど論理的で理屈にかなっていようと、決定的にテストされるのは”説明”ではない。テストされるのは、きみがマネジャーとしてやれる限りのことをやり尽くさずに、不満な結果を満足なものとして受け入れるかどうかだ。(中略)あるマネジャーと別のマネジャーとの重要な違いは、そのおのおのがどんな基準を定め、満足すべき経営というものについてみずから定めた条件を満たすためにどれだけのことをするかということだ。
あらゆる最高経営者の第一の義務は会社の目標を定めることである。ゴールポストの方向を人々に示し、どういうふうにしてそこへ達するか指示するのは彼の責任である。
真実こそ良い経営の核心をなすものである。経営決定は事実の正直な検討に基づいてなされなくてはならず、地位の上下関係や脅迫や相互依存や友情その他を通じて他人の力を借りた一個の人間によって動かされるべきものでは無い。
私は誰かの能力をけなしたり、脅かしたりしたことは一度もない。皮肉や個人攻撃はいかなるレベルでも慎むべきものとされた。論理的、啓発的な批判より、利口ぶった皮肉な言葉が、想像力に富む良い考えの芽を摘み取ってしまうことが多い。
きみの思い通りにやるなら、日夜よく研究して、自分が何をやっているかを自覚してやりたまえ。決して闇雲に何かをやったりしないように。きみが困った立場になるのは、きみが状況に関する事実を充分に探究しなかったために物事がおかしくなったのだとわかった時だ。
最高経営者として人々を鼓舞する最良の道は、行為と日常の態度によって、自分が心から彼らを支持していることをわからせることである。(中略)それがつまり、みんなが危機にある時、率先してオールをつかむということだ。
真のリーダーは下の人々に、どんな理由からであれ自分に近づくことを恐れさせないように、まがいものでない門戸開放政策を維持しなくてはならない。
会社を統率する人間は、その会社の人々が本当は彼のために働いているのではないということを認識しなくてはならない。彼らは彼らと一緒に自分自身のために働いているのだ。彼らはそれぞれに自分の夢を、自己達成への要素を持っている。彼が自分のそれを満たすのを、彼らが助けてくれるのと同じくらい、彼もまた彼らが自分たちのそれを満たすのを助けてやらなくてはならない。
数字自体は何をなすべきかを教えてはくれない。それは行動へのシグナル、思考への引き金にすぎない。それは水脈のありかを指し示す占う棒に似ている。実際に水を得るためには掘らなくてはならない。企業経営において肝要なのは、そうして数字の背後で起こっていることを突き止めることだ。
数字はいわば会社の操縦装置であり、疲労のために頭がくらくらしてくるか、それともある数字はまたは数字の集合が、他の中から抜きんでて注意を要求し、そしてその要求が満たされるまでは、読んで読んで読み続けなくてはならない。

 

すべての良い会社経営の最も重要かつ本質的な要素は情緒的態度である。(中略)マネジメントは生きている力だ。それは納得できる水準に達するように、物事をやり遂げる力である。マネジメントには目的が、献身が無くてはならず、その献身は情緒的な自己投入でなくてはならぬ。それは真のマネジャーならだれでも、人格の枢要部分として組みこまれていなければならないものだ。
なすべきことをしようとする衝動の原動力となるのは、論理ではなく、深い所に内在する情緒である。自分がなぜそういうふうに行動するのか、またなぜほかの行動ではなくその行動を選択するのか、彼には説明できないかもしれない。彼がそうするのは、それが正しいことだと感じるからだ。その情緒の動きは彼と一緒に、あるいは彼の下に働く人々にも伝わる。彼のその情緒的献身は、会社の目標のみならず自分たちに対するものであることを、彼レは感じ取る。そして彼らは彼の性格の本質をなすその”情緒”に同調して、喜んで彼のリードに従う。
マネジャーが目的を達成するためには、なんとしても、正しい決定をするのに必要な情報を入手しなくてはならない。そうすれば、目的への道は一歩一歩、おのずと開けていく。どの一段を上がるにも、真の状況を把握するための正確な事実が必要だ。信頼できる情報に拠ることができれば、決定を行うことはさほど困難えはない。事実は力である。
実績は実在であり、実績のみが実在である。これがビジネスの不易の大原則だと私は思う。実績のみが、きみの自信、能力、そして勇気の最良の尺度だ。実績のみが、きみ自身として成長する自由をきみに与えてくれる。実績こそきみの実在だ。ほかのことはどうでもいい。マネジャーとは”実績をもたらす人間”だと私が定義するのはこの理由による。