読書履歴:ブラック・スワン(上) 不確実性とリスクの本質 / ナシーム・ニコラス・タレブ

ブラックスワン(上)

2016年8月14日読了。

内容・感想まとめ

予測も出来ない不確実な事象、見えないリスクに対する人間の思考には根本的な欠陥があり、欠陥の上に成り立つ既存の学問はそういった「黒い白鳥」の前では無力であるということを、哲学、心理学、統計学、経済学、身の回りに起こる様々な事例などを通じて批判。

著者がトレーダーであることから、経済学、ビジネス書に分類されることが多い印象だが、どちらかというと、哲学、あるいはエッセー的なモノに分類しても良いかもしれない。とにかく文体が口語的で、読者が色々知っていることを前提で書かれているような砕けた文体であるため、慣れるまでに時間を要する。3回位挫折して、盆休みでやっと読み切った。

人にとって、意思決定を行う際に「知っていることがすべて」に陥りがちである、という点で先日読んだ『ファスト&スロー』と重なる部分が多い、と思っていたら上巻の後半でダニエル・カーネマンの名前が何度か出てきており、同じテーマについて、哲学的にアプローチしているのが本書、心理学的にアプローチしているのがダニエル・カーネマン、と言ってもいいのかも知れない。両方読んでみると理解がすすむ。

 

マーカー引いた所(引用・抜粋)

この本で黒い白鳥と言ったら、それはほとんどの場合、次の三つの特徴を備えた事象を指す。第一に、異常であること。つまり、過去に照らせば、そんなことが起こるかもしれないとはっきり示すものは何もなく、普通に考えられる範囲の外側にあること。第二に、とても大きな衝撃があること。そして第三に、異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こってから適当な説明をでっちあげて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりすること。

私たちは細かい論理の誤りに弱い。私たちは一所懸命に集中していないと、気付かないうちに問題を単純化してしまいがちである。私たちの頭は私たちが知らない間に四六時中そんなことをやっているからだ。

私たちの反応や思考や直感は、ものごとがどんな文脈で現れるか、つまり進化心理学者がものごとや事象の「領域」と呼ぶもので大きく左右される。情報が与えれらると、私たちは論理ではなく、その情報を囲む枠組みと、それが私たちの社会・情緒システムにどんな影響を与えるかにもとづいて反応を決める。

裏付けになる事実をいくら集めても証拠になるとは限らない。白い白鳥をいくら見ても黒い白鳥がいないことの証拠にはならない。(中略)反証を積み重ねることで、私たちは真理に近づける。裏付けを積み重ねてもダメだ!観察された事実から一般的な法則を築くと間違いやすい。

裏付けばかり探してしまうという私たちの生まれつきの傾向を認知科学者たちが研究している。彼らはこの、裏付けを求めて犯す誤りに弱い私たちの傾向を、追認バイアスと呼んでいる。(中略)哀しいことに、裏付けを求めるのは私たちの頭に組み込まれた習性であり、私たちのものの考え方なのだ。

私たちには特定の分野でだけ帰納的な推論を行なうよう巧妙に仕組まれた本能を生まれつき持っていて、それが私たちを導いてくれるようだ。偉大なデイビッド・ヒュームとイギリスの経験主義の伝統は、信念は習慣から生まれるっと主張している。人間は経験や実証的観察だけにもとづいて一般化を行うと彼らは仮定している。でも、実はそうではない。子供の行動を研究した結果によると、私たちの頭に生まれつき備え付けられている装置は、経験を選んで一般化する。

私たちは講釈が好きだ。私たちは要約するのが好きで、単純化するのが好きだ。ものごとの次元を落とすのが好きなのである。(中略)講釈の誤りは、連なった事実を見ると、何かの説明を織り込まずにはいられない私たちの私たちの習性に呼び名をつけたものだ。一連の事実に論理的なつながり、あるいは関係を示す矢印を無理やりあてはめることと言ってもいい。説明をすれば事実動詞を結びつけることができる。そうすれば事実がずっと簡単に覚えられるし、わかりやすくなる。私たちが道を踏み誤るのは、この性質のせいでわかった気になるときだ。

意図せず何かをせず、「初期設定」に任せていると、私たちは自然に理論化を行う。事実を見て、判断を控えて説明をつけずにいるのには大変な努力がいる。そして、この理論化という病気を抑えるのは困難だ。この病気は私たちの身体に取り憑いていて、生理の一部になっている。だから、この病気と闘うことは自分自身と闘うということだ。

生の情報よりもパターンのほうが小さくまとめられる。(中略)私たち霊長類ヒト科のメンバーは、いつも法則に飢えている。ものごとの次元を落として頭に収まるようにしないといけないからだ。あるいはむしろ、哀しいことに、ものごとを頭にむりやり押し込むのかもしれない。情報がランダムであればあるほど次元は高くなり、要約するのが難しくなる。要約すればするほど、当てはめる法則は強くなり、でたらめでなくなる。そんな仕組みが一方で私たちに単純化を行わせ、もう一方で私たちに世界が実際よりもたまたまでないと思い込ませる。

私たちは起承転結のある話に沿って記憶を集め、無意識のうちにいやおうなしに記憶を書き換えていく。その後起こったことに照らして、論理的に意味が通ると思う筋に合わせて講釈を作り直す。

講釈の誤りという病を避けるには、物語よりも実験を、歴史よりも経験を、理論よりも臨床的知識を重んじることだ。実証主義だからといって、家の地下室に実験室をつくらないといけないわけではない。ある種の知識をほかの種類の知識より重んじる心がけができていればいい。

私たちの情報の仕組は、因果が線形である場合向けに設計されている。たとえば、毎日勉強すれば、勉強量に比例して何かが身につくだろうと期待する。どこかへ向かっている感覚がないと、情緒が働いてやる気をなくさせようと期待する。どこかへ向かっている感覚がないと、情緒が働いてやる気をなくさせようとする。

歴史とは、後から起こったことの効果を合わせて見た一連の事象のことである。(中略)歴史の理論をでっちあげながら墓場から目をそらすのはとても簡単だ。でも、そういう問題があるのは歴史に限らない。標本をつくったり証拠を集めたりするなら、どんな分野でも当てはまる。こういうこじつけをバイアスと呼ぶことにする。つまり、私たちの目に入るものと、実際にそこにあるものの違いがバイアスだ。

成功を理解し、何が成功をもたらしたかを分析するためには、失敗例の特徴も研究しないといけない。

安定性の幻想だ。このバイアスのせいで、私たちは過去に自分がとってきたリスクを実際よりも低く感じてしまう。そんなリスクをかいくぐって生き延びた運のいい人たちはとくにそうだ。死ぬかもしれない本当に危ない目に遭い、それでもなんとか生き延びて、それを後から振り返ると、どれだけ危ない状況だったのかを過小評価してしまう。

私たちは強がりでリスクをとるのではなくて、何も知らないから、そして確率を見るのに不自由だからリスクをとるのだ。(中略)私たちがたまたま今日までこうして生きながらえたからといって、今後も同じリスクをとり続けるべきだということにはならない。

私たちには黒い白鳥が見えない。私たちは起こってしまったことを心配し、起こるかもしれないが起こらなかったことは心配しない。だからこそ私たちはプラトン化する。知っている図式やよく整理された知識を好む。そうやって現実を見るのに不自由になる。だからこそ私たちは帰納の問題に陥り、追認の誤りを犯す。だからこそ、よく「お勉強」して学校の成績がよかった連中ほど、お遊びの誤りのカモになる。

今の型番の人類は、抽象的なことがわかるようにはできていない。文脈がないと私たちにはわからない。ランダム性や不確実性は抽象的だ。私たちは、起ったことには敬意を払い、起こるかもしれなかったことはそっちのけだ。言い換えると、私たちは生まれつき浅はかで中身が薄い。

知識に関するうぬぼれには二つの効能がある。私たちは、不確実な状態がとりうる範囲を押し縮めて、自分が知っていることは課題に見積もり、不確実性は過少に見積もる。(中略)私たち人類は、未来が最初に思い描いた筋から外れていく可能性を慢性的に小さく見積もってしまう。

「専門家」の一般的な欠点を詳しく見ていこう。彼らは不公平な勝負をしている。自分がたまたま当たったときは、自分はよくわかっているからだ、自分には能力があるからだと言う。自分が間違っていたときは、異常なことが起こったからだと言って状況のせいにするか、もっと悪くすると、自分が間違っていたことさえわからずに、また講釈をたれてはしたり顔をする。自分がちゃんとわかっていなかったんだとは、なかなか認めない。(中略)まぐれを認識するとき、私たちは場合によって違う要素のせいにする。人間はそんな非対称性に振り回される犠牲者なのだ。うまく行けば自分の能力のおかげだと思い、失敗すれば自分ではどうにもできない外生的な事象、つまりまぐれのせいにする。いいことには責任を感じるけれど、悪いことには感じない。

予想外の出来事は計画に対して一方的にだけ影響を及ぼす。予期しない出来事の力は、ほとんど常に一方向にだけ働く。完成するのにコストや時間は大きくなる一方だ。(中略)私たちの種は了見が狭すぎて、頭で考えられる予想の範囲を外れたことが起こるなんて可能性は考慮できない。それに焦点を強く絞ってしまうから、視野の外の不確実性、つまり「未知の未知」に思いをはせることもできない。

私たちは基準点を使って考える。たとえば売上高の予測をたたき台にして、そのまわりに信念を積み上げる。アイディアを独立に評価するより、基準点と比較して評価した方が頭を使わずにすむ。何か比べるものがないと、私たちは考えることすらままならない。

企業や政府が行う予測には、もう一つ簡単にわかる手落ちがある。彼らのシナリオには、誤差率、つまりありうる間違いの割合が一緒に示されていないのだ。黒い白鳥なんていなかったとしても、それを無視するのは間違いである。

読書履歴:ピクサー流 創造するちから―小さな可能性から、大きな価値を生み出す方法 / エド・キャットムル

ピクサー流創造するちから 2016年8月9日読了。

内容・感想まとめ

ピクサー創業者であり、ディズニーアニメーションスタジオの代表をも務めるエド・キャットムルが、ピクサー創業からスティーブ・ジョブズとの出会いを経てディズニー傘下に入り、「ラプンツェル」や「アナ雪」のヒットに代表されるディズニーアニメーションの再生を果たすまでの時間軸に沿って、経営者として大事にしてきた組織運営、マネジメントに関わる考え方、方針をまとめた本。

「創造的で、かつ、持続可能な組織」という著者が創業以来常に追い続けてきた有るべき会社組織を創り上げるまでの著者の苦闘、創造と破壊の歴史、および、著者の組織運営・マネジメントに対する考え方と、それを実現したピクサーが取り入れて来た仕組みが本筋の話。だが、ピクサーが手掛ける「トイ・ストーリー」や「モンスターズ・インク」といった誰もが知るアニメの制作秘話、ベンチャー企業が陥る創業時の混沌・資金繰りの苦労話・事業のピポット、あまり取りざたされないスティーブ・ジョブズの人間味あふれる一面、などなど、脇を彩るエピソードの数々だけでも一冊の本が書けそうなほど、心躍るストーリーにあふれる。

元々、工学系の学者タイプのバックボーンを持つ著者らしく、経営者の著書にありがちな主観的・感情的に記述に陥ることなく、客観的・論理的に考えがのべられており、華やかなアニメーション制作の挿話と絶妙なコントラストを生んでいる。

ディズニーによる買収を経て、いわゆる大企業病に罹る兆候を察した経営陣が、それを打破すべく大きな一手を打ち、大成功を収め、再び社員一丸となって真に創造的な企業として走り出までの何かが変わり、動き出すまでのワクワク感と、その土台をつくり庇護者となったスティーブ・ジョブズとの別れを描いた終盤は、さすがピクサーのストーリー!と思わせるほど、ページを繰る手が止まらず、読んでいてアツいモノが込み上げて来る展開。

今年読んだ本の中でベスト。何度も読み返したくなる一冊。

 

マーカー引いた所(引用・抜粋)

私が思うマネジャーとしての自分の仕事は、豊かな環境をつくり、それを健全に維持し、それを妨げるものに目を光らせることだ。誰にでも創造性を発揮できるポテンシャルがあり、それがどのようなかたちであれ花開くのを後押しすることは心底尊いことだと思う。

マネジャーは、手綱を引き締めるのではなく、緩めなければいけないと思う。リスクを受け入れ、部下を信頼し、彼らが仕事をしやすいように障害物を取り除く。そしてつねに、人に不安や恐怖を与えるものに注意を払い、向き合う。それはマネジャーの義務だ。

困難な問題には、多くの知性を同時に集結して解決にあたったほうがいい。それを認めないのはばかげている。

無知と、旺盛な成功欲求との組み合わせ以上に、短期間での学習を促すものはない。

誰かが製造ラインに問題を見つけたら、それがどの階層の人であろうと、組み立てラインを止めるべきであり、それを認められるべきだ(中略)作業者は、同じ作業をただ繰り返すのではなく、変更を提案したり、問題点を指摘したり、そして私にはこれが何より重要だと思われたのだが、壊れた箇所を直す役に立ったときに誇りを感じることができた。それが継続的な改善につながり、欠陥を洗い出し、品質を向上させた。(中略)トヨタ自動車は紛れもない階層組織だが、その中心には民主的な信条があった。つまり、責任を持つことに許可はいらないのだ。

私がそれまでピクサーが成功してきた理由だと思っていたことの中に、後で勘違いだとわかったことがいくつかあったが、間違いようのないことが一つあった。それは、持続する創造的な起業文化を築く方法を見つけること ――率直さ、卓越紗、コミュニケーション、独自性、自己評価といったものが重要だと口先で言うのではなく、それがどれほど不快な思いを伴っても、それを有言実行すること―― は、片手間ではできない。日々努力のいるフルタイムの仕事だ。

イデアをきちんとかたちにするには、第一にいいチームを用意する必要がある、優秀な人材が必要だというのは簡単だし、実際に必要なのだが、本当に重要なのはそうした人同士の相互作用だ。どんなに頭のいい人たちでも相性が悪ければ無能なチームになる。したがって、チームを構成する個人の才能ではなく、ちーむとしてのパフォーマンスに注目したほうがいい。メンバーが互いを補完し合うのがよいチームだ。

品質のよさを表す「卓越性」は、自分で自分のことを言うのではなく、人から言われるべき言葉だ。言葉がきちんとその意味どおりに、それが象徴する理想どおりに使われていることを確認するのはリーダーの仕事だ。

「品質は、最良のビジネスプランである」。品質は、行動の結果ではなく、どう行動するかを決める前提条件であり心の持ちようだ。品質が大事だと誰もが言うが、言う前に実行すべきだ。品質は日常の一部であり、考え方であり、生き方であるべきだ。

何を吟味するかによって規模や目的が異なるが、つねになくてはならない要素が率直さだ。絵に描いた餅ではだめで、率直な議論という批評的な要素なしでは、信頼は生まれない。そして信頼なしでは創造的な共同作業はできない。

失敗は、対処のしかた次第で成長するチャンスになる。ただ、そういうと、まちがいは必要悪だととられる。まちがいは必ずしも悪ではない。悪でもなんでもない。まちがいは、新しいことを試みたすえの当然の結果だ。けれども、失敗を受け入れることが学習において重要だといくら言っても、それを認識するだけでは不十分なこともわかっている。なぜなら失敗は苦痛を伴い、それが失敗の価値を理解する妨げとなっているからだ。失敗のいい点と悪い点を分けて考えるためには、苦痛という現実と、その結果として得られる成長というメリットの両方を認識する必要がある。(中略)恐れから失敗を避けようとする組織文化では、社員は意識的にも無意識的にもリスクを避ける。そして代わりに、過去にやって合格点だった安全なことを繰り返し行おうとする。その成果は派生的なものであり、革新的なものではない。けれども、失敗のプラスの側面を理解できるようになれば、逆のことが起こる。

新しい試みを恐れる人も多いが、本当はその逆のアプローチをとるほうがはるかに怖い。リスク回避も度を過ぎると、企業の変革を止め、新しいアイディアの拒絶につながる。それは見当違いのはじまりだ。企業が落ち目になるのはほとんどそのためであって、限界に挑戦したり、リスクを負ったり、失敗を恐れなかったからではない。失敗する可能性のある事に取り組むのが、本当に創造的な起業なのだ。

社員は賢い。だから雇ったはずだ。だったらそれらしく扱おう。歪曲された不正直なメッセージは見破られる。上司が計画だけ説明して理由を説明しなければ、部下は本当の意図は何かと怪しむ。隠れた意図はなくてもそう思わせているということだ。どのような思考プロセスで解決策に至ったのかを説明すれば、部下は、憶測ではなく解決策そのものに注意を向ける。

問題を一つ残らず防ごうとするのではなく、スタッフの善意を信じ、彼らが問題を解決したいと思っていると信じるべきだ。実際に、そう思っている場合がほとんどなのだから。責任を与え、失敗させ、自ら解決させる。恐れには必ず理由がある。リーダーの仕事はその理由を見つけて対処することだ。マネジメントの仕事は、リスクを防止することではなく、立ち直る力を育てることなのだ。

不健全な組織文化では、自部門の目的が他部門の目的に勝れば、会社はもっと儲かると思っている。健全な組織文化では、相対するニーズ間のバランスが重要なことを全部門が認識している。部門間の相互作用 ―――優秀な社員が明確な目標を与えられたときに自然発生する駆け引き――― がそのバランスを生み出す。しかしそれは、バランスの実現が会社にとって重要な目標であることを理解して初めて起こる。(中略)対立するのは健全なことだと社員に理解させるのは、マネジメントの仕事だ。それがバランスを実現させる道であり、長い目で見て皆の利益につながる。

「見えないものを解き明かし、その本質を理解しようとしない人は、リーダーとして失格である。(中略)自分が見て知っていることが不完全だと認めるならば、その認識を高める努力をするべきだろう。ギャップを埋める努力、と言ってもいい。

本来は効果的であるはずの階層制度が、進歩を妨げるものに変わってしまうきっかけは何か。それは、自分や他人の価値を無意識に序列の上下と同一視する人が増えたときにそうなる。そのため、上司の心証をよくすることに全精力を注ぎ、組織図上自分より下の人には扱いがぞんざいになる。(中略)人は自分が実際に見ている以上に見えていると思っているため、自分で自分の視界を歪ませていることに気が付いていない。

初心を捨てることで、人は何か新しいものを作り出すよりも、前にやったことを繰り返すようになる。言い換えれば、失敗を避けようとして失敗しやすくなる。過去や未来に関する自分の思いや考え方に邪魔されることなく、この瞬間に注意を向けることが重要だ。なぜかと言うと、それによって人の意見の入る余地が出来るからだ。人の意見を信頼できるようになり、さらに重要なことに、それが聞けるようになる。

創造する企業のマネージャーは、「そうすれば社員の知恵を生かせるか」つねに自分に問う必要がある。(中略)創造的な仕事をする人は、挑戦が決して終わらないこと、失敗は回避できないこと、「ビジョン」が多くの場合幻想であることを受け入れなければならない。しかし小津時に、つねに安心して本音を話せると感じられることも必要だ。

物事は変わるべくしてつねに変わっている。変化に伴って必要になるのが、適応であり、新鮮な考えかたであり、ときにはプロジェクトや部署や部門や会社全体の完全な「再起動」だ。

未来は到達点ではなく一つの方向だ。だから正しい進路を決めるために日々努力し、間世田ら修正するのが我々の仕事だ。もう次の危機がそこの角まで来ているのを感じる。活気に満ちた創造的な文化を維持するためには、一定の不確実性を恐れてはならない。天候を受け入れるように、それを受け入れなければならない。不確実性と変化は、人生につきものであり、そこが楽しいところでもある。取り組むべき課題が現れれば、必ずまちがいはまた発生する。それが現実だ。我々の仕事に終わりはない。問題はつねに起こり、その多くは隠れて見えない。それらを明るみに出し、たとえそれによって葛藤が生まれようとも、その多くは隠れて見えない。それらを明るみに出し、たとえそれによって葛藤が生まれようとも、それらの問題における自分の役割・責任を問わなければならない。(中略)社員に創造性を発揮させるためには、我々がコントロールを緩め、リスクを受け入れ、社員を信頼し、彼らの行く手を阻むものを取り除き、不安や恐怖をもたらすあらゆるものに注意を払わなければならない。これらをすべて実践しても創造的な組織文化を管理することは必ずしも楽なことではない。けれども、目指すべきは楽になることではなく、卓越することなのだ。

読書履歴:ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? / ダニエル・カーネマン

ファスト&スロー(下)

2016年7月30日読了。

内容・感想まとめ

認知的錯覚の状態を、「システム1とシステム2」「エコン(経済人)とヒューマン」「経験する自己と記憶する自己」の3つの概念の二項対立を軸に据えて説明する本書は、上巻を「システム1とシステム2」の説明に割き、下巻は「エコン(経済人)とヒューマン」「経験する自己と記憶する自己」それぞれの対立について解説。

ノーベル経済学賞受賞者らしく、合理的経済人(エコン)に基づいた経済学を心理学的見地から批判。上巻に比べると専門的な言葉が登場する頻度が高く、ちょっと難解。

マーカー引いた所(引用・抜粋)

認知主導的意思決定モデルには、システム1とシステム2の両方が関わっている。最初の段階では、連想記憶の自動運転すなわちシステム1により、試案が思い浮かぶ。次の段階ではこの試案がうまくいくかどうか、頭の中でシミュレーションを行う。この入念なプロセスは、もちろんシステム2の担当である。
「状況が手掛かりを与える。この手掛かりをもとに、専門家は記憶に蓄積されていた募集を呼び出す。そして情報が答えを与えてくれるのだ。直感とは、認識以上でもなければ以下でもない」
人々が自分の判断に自信を持つ時には、認知容易性と一貫性が重要な役割を果たしている。つまり、矛盾や不一致がなく頭にすらすら入ってくるストーリーは受け入れやすい。だが認知が容易でつじつまが合っているからといって、真実だという保証にはならない。連想マシンは疑いを押さえつけるようにできており、一番もっともらしく見えるストーリーにうまくはまる考えや情報だけを呼び出す仕組みになっている。「見たものがすべて」なので、自分の知らないことはないものとし、簡単に自信過剰になってしまう。こうして私たちの大半は、根拠のない直感にひどく自信を持つことになるわけだ。人々が自分の直感に対して抱く自身は、その妥当性の有効な指標とはなり得ない、という原則である。言い換えれば、自分の判断は信頼に値すると熱心に説く輩は、自分も含めて絶対に信頼するな、ということだ。
「くそおもしろくない」統計情報は、個人的な印象と一致しない限り、簡単にゴミ箱行きになりやすい。内部情報に基づくアプローチと対立する場合、外部情報に基づくアプローチに勝ち目はないのである。
「多くの人は過去の分布に関する情報を軽視または無視しがちであり、この傾向がおそらく予測エラーの主因だと考えられる。したがって計画立案者は、入手可能なすべての分布情報が十分に活用できるように、予測問題の枠組みを整える努力をしなければならない」
リスクを伴うプロジェクトの結果を予測するときに、意思決定者はあっけなく計画の錯誤を犯す。錯誤にとらわれると、利益、コスト、確率を合理的に勘案せず、非現実的な楽観主義に基づいて決定を下すことになる。利益や恩恵を過大評価してコストを過小評価し、成功のシナリオばかり思い描いて、ミスや計算ちがいの可能性は見落とす。その結果、客観的に見れば予算内あるいは納期内に収まりそうもないプロジェクト、予算収益を達成できそうもないプロジェクト、それどころか感性もおぼつかないプロジェクトにまい進することになってしまう。
計画の錯誤は、数ある楽観バイアスの一つにすぎない。私たちの大半は、世界を実際よりも安全で親切な場所だとみなし、自分の能力を実際よりも高いと思い、自分の立てた目標を実際以上に達成可能だと考えている。また自分は将来を適切に予測できると過大評価し、その結果として楽観的な自信過剰に陥っている。意思決定におよぼす影響としては、この楽観バイアスの中で最も顕著なものと言えるだろう。
チームがある決定に収束するにつれ、その方向性に対する疑念は次第に表明しにくくなり、しまいにはチームやリーダーに対する忠誠心の欠如とみなされるようになる。とりわけリーダーが、無思慮に自分の意向を明らかにした場合がそうだ。こうして懐疑的な見方が排除されると、集団内に自信過剰が生まれ、その決定の支持者だけが声高に意見を言うようになる。
人間も含めてあらゆる動物は、得をするより損を防ぐことに熱心である。(中略)組織改革を試みたときに起こりがちな顛末を、この原則で説明できるだろう。(中略)改革というものはまず必ず、全体としてみれば改善であっても、大勢の勝ち組をつくる一方で、一部に負け組を生む。だが改革で不利益を被る人たちが政治的な影響力を持っている場合、潜在的な負け組は潜在的な勝ち組よりも積極的に、かつ強い意志を持って、その影響力を行使する。すると結果的にはこの人たちに好都合な改革になり、当初の計画より費用は高く効果は低い、ということになりやすい。
八方塞がりになった人々が絶望的な賭けに出て、大損を免れる一縷の望みと引き換えに、高い確率で事態を一層悪化させる選択肢を受け入れる。対処可能だった失敗を往々にして大惨事に買えるのは、この種のリスクテークだ。確実な大損を受け入れるのはあまりに苦痛が大きく、それを完全に避けられるかもしれないという望みはあまりに魅力的である。その結果、起死回生の一手を打つしかないという決断に立ち至る。
「めったに起こりそうもない出来事は無視されるか、または過大な重みをつけられる」(中略)起こりそうもない結果に過大な重みをつけるのは、いまやおなじみになったシステム1の仕業である。感情と鮮明性は、流暢性、利用可能性、確率判断に影響をおよぼす。めったに起きないが無視できない出来事に私たちが過剰に反応するのは、これによって説明することができる。
プロスペクト理論に従えば、ギャンブルと確実な結果との選択は、結果が「よい」か「悪い」か次第で逆転する。意思決定者は、選択の結果がどちらも好ましい場合には、ギャンブルより確実性を好む傾向がある。つまり、リスク回避的になる。しかし、どう転んでも結果が悪いときには、ギャンブルを容認する。つまりリスク追求的になる。
私たちはたとえ重要な選択であっても、その表現や書式など、本質とは関係のない事柄に振り回される。これはじつに困ったことである。重要な意思決定をどうしたらちゃんと下せるとか、自分の頭の働きをどうやったら理解できるのか、といった問題はひとまず措こう。大事なのは、こうした認知的錯覚の存在を示す証拠は否定できないことである。
経験と記憶を混同するのは、強力な認知的錯覚である。これは一種の置き換えであり、すでに終わった経験も壊れることがありうる、と私たちに信じ込ませる。経験する自己には発言権がない。だから記憶する事故はときに間違いを犯すが、しかし経験したことを記録し取捨選択して意思決定を行う唯一の存在である。よって、過去から学んだことは将来の記憶の質を最大限に高めるために使われ、必ずしも将来の経験の質を高めるとは限らない。記憶する自己は独裁者である。
「人間は首尾一貫した選好を持ち合わせており、それを最大化すべく行動する」というのが合理的経済主体モデルの大前提であるが、実験データはこの前提に重大な疑義を呈したといえるだろう。私たちの脳は、それほど整合的なデザインになっていないのである。

読書履歴:ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? / ダニエル・カーネマン

ファスト&スロー(上)

2016年7月20日読了。

内容・感想まとめ

著者のダニエル・カーネマンは、不確実な状況下における意思決定モデル「プロスペクト理論」などを経済学に統合したことで業績を評価され、心理学者でありながら、ノーベル経済学賞を受賞した異色の経歴の持ち主。

本書は、人が意思決定を行う際、Fastな思考とSlowな思考の二つの思考システムを使って判断を下している、という認知心理学の研究を一般向けにかみ砕いて書かれた本。

特に、Fastな思考=システム1がいかに人の判断を誤らせるか、いわゆるバイアスや錯誤、ヒューリスティックといった認識のエラーが発生する原因を様々な事例などを用いて解説。著者の意図どおり、「システム1」「システム2」という思考回路の働きが実在するキャラクターかのように擬人化されて表現されており、難解な話ではあるも、読み物として好奇心が掻き立てられる。

仕事をしていてたまに耳にする「もっと考えてから話せ」とか「考えが浅い」とか言うようなことは全て「システム1」の誤作動か、「システム2」への切換えがうまくいっていないか、のどちらかのでは、なんてことを考えながら読むと楽しい。

マーカー引いた所(引用・抜粋)

脳の中の二つのシステムをシステム1、システム2と呼ぶことにしたい。 「システム1」は自動的に高速で働き、努力はまったく不要か、必要であってもわずかである。また、自分の方からコントロールしている感覚は一切ない。 「システム2」は、複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる。システム2の働きは、代理、選択、集中などの主観的経験と関連付けられることが多い。
システム1は何の努力もせずに印象や感覚を生み出し、この印象や感覚が、システム2の形成する明確な意見や計画的な選択の重要な材料となる。システム1の自動運転が生み出すアイデアのパターンは驚くほど複雑だ。だが、一連の段階を踏み順序だてて考えを練り上げられるのは、スピードの遅いシステム2だけである。システム2は、システム1の自由奔放な衝動や思想を支配したり退けたりすることもできる。
私たちの大半は、ほとんどの時間、一貫した一つの繋がりの思考を維持するにも、たまさかの複雑な思考に取り組むにも、セルフコントロールを必要とする。系統的な調査をしたわけではないが、タスクを頻繁に切り替えたり、知的作業をスピードアップしたりするのは本質的に不快なことであり、人間は可能であればそれを避けるのではないかと思う。
実験で繰り返し確認されたのは、強い意志やセルフコントロールの努力を続けるのは疲れるということである。何かを無理やり頑張ってこなした後で、次の難題が降りかかってきたとき、あなたはセルフコントロールをしたくなくなるか、うまくできなくなる。この現象は、「自我消耗」と名付けられている。代表的な実験では、感情的な反応を抑えるよう指示した上で被験者に感動的な映画を見せると、その後は身体的耐久力のテストで成績が悪くなった。実験の前半で感情を抑える努力をしたために、筋収縮を保つ苦痛に耐える力が減ってしまったわけだ。このように、自我消耗を起こした人は、「もうギブアップしたい」という衝動にいつもより早く駆り立てられる。
自分を信頼できる知的な人物だと考えてもらいたいなら、簡単な言葉で間に合うときに難解な言葉を使ってはいけない。(中略)ありふれた考えをもったいぶった言葉で表現すると、知性が乏しく信ぴょう性が低いとみなされる。文章をシンプルにしたうえで、覚えやすくするとなおよい。できるなら、韻文にすることがお勧めだ。そのほうが真実と受け取られやすい。
「自分のみたものがすべてだ」となれば、つじつまは合わせやすく、認知も容易になる。そうなれば、私たちはそのストーリーを真実と受け止めやすい。速い思考ができるのも、複雑な世界の中で部分的な情報に意味づけできるのも、このためである。たいていは、私たちがこしらえる整合的なストーリーは現実にかなり近く、これに頼ってもまずまず妥当な行動をとることができる。だがその一方で、判断と選択に影響をおよぼすバイアスはきわめて多種多様であり、「見たものがすべて」という習性がその要因となっていることは、言っておかなければならない。
人間の行動について驚くべき統計的事実を知った人は、友人に話して回る程度には感銘を受けるかもしれないが、自分の世界観がそれで変わるわけではない。だが、心理学を学んだかどうかの真のテストとなるのは、単に新たな知識が増えたかどうかではなくて、遭遇する状況の見方や認識の仕方が変わったかどうかである。私たちは、統計を考えるときと個別の事例を考えるときとで、向き合い方が大きく異なる。因果的解釈を促す統計結果は、そうでないデータよりも、私たちの思考に強い影響をおよぼす。だが説得力の高い原因を暗示するような統計結果であっても、長年の信念を変えるには至らない。その一方で、驚くべき個別の事例は強烈なインパクトを与え、心理学を教えるうえで効果的な手段となりうる。なぜなら信念との不一致は必ず解決され、一つのストーリーとして根付くからだ。人間一般に関する驚くべき事実を知るよりも、自分自身の行動の中に驚きを発見することによって、あなたは多くを学ぶことができるだろう。
実際にことが起きてから、それに合わせて過去の自分の考えを修正する傾向は、強力な認知的錯覚を生む。後知恵バイアスは、意思決定者の評価に致命的な影響を与える。評価をする側は、決定にいたるまでのプロセスが適切だったかどうかではなく、結果がよかったか悪かったかで決定の質を判断することになるからだ。(中略)「結果バイアス」が入り込むと、意思決定を適切に評価すること、すなわち決定を下した時点でそれは妥当だったのか、という視点から評価することはほとんど不可能になってしまう。
ハロー効果はきわめて強力なため、同じ人間の同じ行動であっても、物事がうまくいっているときに「凡庸だ」と酷評したり、まずくなったときに「それでも優秀だ」と評価したりすることに、抵抗を感じるようになる。しかもハロー効果が作用するとき、私たちはそこに因果関係を感じるようになる。しかもハロー効果が作用するとき、私たちはそこに因果関係を見つけようとする。
スキルの錯覚は単に個人の問題ではなく、業界の文化に深く根を下ろしている。業界の大前提に疑義を呈し、ひいてはそこで働く人たちの生計の手段や自尊心を脅かすような事実は、けっして受け付けられない。脳が消化できないのである。とりわけ能力や実績の統計結果はそうだ。統計から導かれる基準率情報は、個人の経験に基づく印象に反する場合、あっさり無視される運命にある。

 

 

読書履歴:人と組織の問題を劇的に解決するU理論入門 / 中土井 僚

U理論入門

2016年7月9日読了。

内容・感想まとめ

『人と組織の問題を劇的に解決する』のサブタイトルに惹かれてジャケ買いした一冊。

U理論とは、大雑把にいえば「課題解決」のためのフレームワークのひとつで、PDCAが過去の行動や情報に基づいて行われるのに対し、U理論は、複雑な課題に対し自らの内面から湧き上がって来る『未来からの学習』へいかにたどり着くか、をベースにしている。

U理論のプロセス自体、フレームワークと言うには抽象度が高く、横文字を使って悟りに至るための禅のプロセスを解説されたような、分かった様な分からない様な妙な読後感。。

入門というだけあって、用語やプロセスについて細かくは解説されておらず、具体的な課題に関する挿話・事例が多め。そちらが分かりやすく「あー、あるある」と思わせるだけに、U理論自体がなかなか理解出来ないこととのギャップを感じて後半読むのしんどかった。。

マーカー引いた所(引用・抜粋)

U理論は大きく言うと、次の3つのプロセスによって成り立っています。 1.センシング:ただ、ひたすら観察する 2.プレゼンシング:一歩下がって、内省する。内なる「知」が現れるに任せる 3.クリエイティング:素早く、即興的に行動に移す
U理論が何かを端的に表現するとすれば、それは「何か(What)」でも「やり方(How)」でもない領域である「誰(Who)」を転換することで、過去の延長線上にはない変化を創り出す方法である
いま遭遇している問題が「煩雑な問題」なのか、それとも「複雑な問題」なのかを見極めることが重要です。(中略)「複雑な問題」は、望ましい状態は明確なのに、それに対して取った打ち手が必ずしも前進にはならないような問題を指します。
複雑な問題には3種類ある。その3つとは「ダイナミックな複雑性」「社会的な複雑性」「出現する複雑性」です。「ダイナミックな複雑性」とは、きわめて多様な要因が絡みあい、原因と結果が空間的、時間的に離れていることによって生じる複雑性です。(中略)「社会的な複雑性」とは、関係者の間で価値観、信念、利害が相反していたり、経験の差に開きが有ったりすることによって生じる複雑性です。(中略)「出現する複雑性」とは、これまで遭遇したことがない予測不可能性が高い変化によって生じる複雑性です。
PDCAサイクルような「過去からの学習」はこれまでも、これからも愛用され、引き続き効果を発揮すると思いますが、特に「出現する複雑性」のように過去に遭遇したことのない問題に対しては当然、過去からの学習には限界があります。U理論では、その過去からの学習に対して、「出現する未来からの学習」という新しい観点を提示しています。(中略)「出現する未来からの学習」は、自分の内面を掘り下げ、内側から湧き上がってくるものに形を与え、そこから肉付けをしていくというプロセスをたどります。
私たちは思い通りの結果が出ないとき、なんでもかんでも「何をどうやるか」すなわち、やり方の工夫で解決しようとします。それで効果がある時は問題ありませんが、効果が得られない時でも、何とかやり方を変えて乗り越えようとします。(中略)こういった状況に対して、U理論では「何を」「どうやるか」ではなく、その行動の「源(ソース)」すなわちその行動を「どこからやるのか」に着眼点を変えることを推奨しています。
畑から収穫を得る最初に取り組むことが土地を耕すことであるように、乾き、やせた「ソーシャル・フィールド(社会的な土壌)」を耕すことから、U理論のプロセスは始まります。(中略)内面の状況と場の質が「不毛」である時、ソーシャル・フィールドは痩せています。逆に、お互いの話に耳を傾け合い深く共感し合えている様な状態や、チームスポーツの試合において、チームメンバーと深い一体感を感じながらプレーに没頭している状態などは、ソーシャル・フィールドが耕され、深まっているといえます。
ダウンローディングとは「過去の経験によって培われた枠組みを再現している状態」を指します。「過去の経験によって培われた枠組み」の内側で、自分の思考や意見などが再現され、その思考や意見に意識の焦点が当たっている。すなわち、それに意識が奪われている状態を指しています。(中略)過去の枠組みは、それが成果に結びついているうちは生産性の向上に寄与しますが、繰り返しに空きてしまって行動量が低下したり、つねにその枠組みで処理してしまうがゆえに、環境が変化しているにも関わらず微細な変化を察知できなくなります。また、成果に結びつかない不適切な枠組みをずっと維持したりします。そうすると、イノベーションは実現できなくなるのです。
「観る(シーイング)」は、「頭の中で起きている雑念に意識を奪われず、目の前の事象、状況、情報に意識の矛先が向けられている状態」です。(中略)自分でスイッチをオン・オフと切り替えるように、「ダウンローディング」から「シーイング」へと転換することはできません。なぜなら「シーイング」というのは意識状態であって、行為ではないからです。(中略)「ダウンローディング」から「シーイング」への移行は受動的に生じるのであって、能動的に起こせるものではないという事です。では何によって、その意向が生じるのでしょうか。それは「自分の前提や固定観念を覆すデータ」に触れた瞬間です。
「ダウンローディング」になっている時には、「外の世界」から一瞬、一瞬飛び込んできている情報が自動的に取捨選択され、歪曲されていきます。その渦巻いている思考の壁をすり抜けて、「自分の前提や固定観念を覆すデータ」が自分の懐へと飛込んで「はっ!」とする驚きとともに「シーイング」への意向が生じやすくするのが「保留」と言う行為です。これが「待つ姿勢の質」を高める秘訣です。(中略)「保留」が習慣化している人は「センス・オブ・ワンダー(驚きのセンス)」と言われる能力が高くなり、一般的に好奇心旺盛な人、柔軟な人として周りから認知されるようになります。
ダウンローディングに陥ってしまう理由のひとつは、自分の「実感」が単なる「解釈」に過ぎないのにそのことに気付かず、事実と解釈を混同し、解釈を現実として扱ってしまうからです。(中略)メタ認知と呼ばれる「自分自身の認知自体を認知する」力を高めることも「保留」の力を高めるために有効です。メタ認知力が高まれば高まるほど、反応的な思考に没入せずにすむため、「保留」しやすくなります。
U理論が従来の問題解決手法やイノベーション手法と一線を画しているのが、「自分の中に他人の目玉を増やすこと」なくして複雑な問題を解決することが出来ない、ということにフォーカスしている点です。
「感じ取る(センシング)」は、「過去の経験によって培われた枠組みが崩壊し、枠組みを超えた側から今の自分や状況が見えている状態」です。(中略)この「センシング」状態になった時、「開かれた心」にアクセスする(中略)人として誰もが持つ、純粋なやさしさにアクセス出来ている状態が「開かれた心」にアクセスしている状態です。「開れた心」にアクセスしている時、雑念として頭の中を渦巻いている、評価・判断の声が嘘のように消えていきます。

読書履歴:経営者の条件 / P.F.ドラッカー

経営者の条件

2016年7月5日読了。

内容・感想まとめ

知識労働者が成果をあげるための考え方、方法論について簡潔にまとめられた名著。原題は"The Effective Executive"で訳すなら『成果をあげる執行責任者』といったところ。

組織とはイノベーションを実現し、成果をあげるという目的の元に出来上がった仕組みであり、そこに属する知識労働者は全て成果をあげるべく行動することが求められる、すなわち”エグゼクティブ”であるとする。文中各所で述べられているように、経営者やいわゆる"エグゼクティブ"を対象としたものでは無い。

初版は1966年と半世紀前に書かれた本ではあるが、全く古さを感じない。経営者はもとより、組織に属して働くすべての人が読むべき本。特に、組織の中で成果を出せずにいる、あるいは成果を出すことを諦めてしまっている人にオススメ。

マーカー引いた所(引用・抜粋)

成果をあげるには、近頃の意味でのリーダーである必要はない。(中略)彼らが成果をあげたのは八つのことを習慣化していたからだった。 (1)なされるべきことを考える (2)組織のことを考える (3)アクションプランをつくる (4)意思決定を行う (5)コミュニケーションを行う (6)機会に焦点をあてる (7)会議の生産性をあげる (8)「私は」ではなく「われわれは」を考える 彼らは、これら八つのうち最初の二つによって知るべきことを知った。次の五つによって成果を上げた。残りの一つによって組織内の全員に責任感をもたらした。
なされるべきことはほとんど常に複数である。しかし成果をあげるには手を広げすぎてはならない。一つのことに集中する必要がある。成果をあげるには、自らが得意とするものに集中しなければならない。
成果をあげるために身に付けるべき第二の習慣、第一のものに劣らず大切な習慣が、組織にとってよいことは何かを考えることである。
エグゼクティブとは行動する者であり、物事をなす者である。エグゼクティブにとっては、いかなる知識といえども行動に転化しないかぎり無用の存在である。(中略)アクションプランなくしては、すべてが成り行き任せとなる。途中でアクションプランをチェックすることなくしては、成り行きの中で意味のあるものとないものとを見分けることすらできなくなる。
意思決定が意思決定たるためには、次の四つのことを決めなければならない。 (1)実行の責任者 (2)日程 (3)影響を受けるがゆえに決定の内容を知らされ、理解し、納得すべき人 (4)影響を受けなくとも決定の内容を知らされるべき人 意思決定はすべてそれを行うときと同じ慎重さで、定期的に見直されなければならない(中略)意思決定の定期的な見直しは、自らの弱み、特にからっきし苦手とするものも明らかにする。そのような分野では何もしてはならない。人に任せるべきである。
成果をあげるには、アクションプランを理解してもらい、情報ニーズを理解してもらわなければならない。特にアクションプランについては、上司、部下、同僚に示し、意見を聞いておかなければならない。同時に、自分がいかなる情報を必要としているかという情報ニーズについても理解してもらわなければならない。
問題ではなく、機会に焦点を合わせることが必要である。問題の処理では、いかにそれが重大なものであろうとも、成果がもたらされるわけではない。損害を防ぐだけである。成果は機会から生まれる。まず何よりも、変化を脅威ではなく機会としてとらえなければならない。組織の内と外に変化を見つけ、機会として使えるかどうかを考えなければならない。
会議の生産性をあげるには、事前に目的を明らかにすることが必要である。目的が違えばそのための準備もその後の成果も違うはずだからである。
もう一つ身に付けるべき習慣が、「私は」とはいわずに、「われわれは」と考え、「われわれは」ということである。最終責任は自らにあることをしらなければならない。最終責任とは、誰とも分担できず、誰にも移譲出来ないものである。トップが権威をもちうるのは、自らのニーズと機会ではなく、組織のニーズと機会を考えるからである。
自らの知識あるいは地位のゆえに組織の活動や業績に実質的な貢献をなすべき知識労働者は、すべてエグゼクティブである。(中略)知識労働者意思決定をしなければならない。命令に従って行動すればよいというわけにはいかない。自らの貢献について責任を負わなければならない。自らが責任を負うものについては、自らの知識によってほかの誰より適切に意思決定をしなければならない。時には、せっかくの意思決定が認められないことがあるかもしれない。降格されたり、解雇されたりすることがあるかもしれない。だがその仕事をしているかぎり、目標や基準や貢献は自らの手の中にある。
知識労働者として自らの組織の業績に貢献すべく行動し、意思決定を行う責任をもつあらゆる人達のために書かれたものである
仕事ぶりの向上は、万能な者をリクルートしたり要求水準をあげたりすることによって図れるものではない。それは人間の能力の飛躍ではなく、仕事の方法の改善によって図らなければならない。
成果をあげることは一つの習慣である。実践的な能力の集積である。実践的な能力は習得することができる。それは単純である。しかし身に付けるには努力を要する。 成果をあげるために身につけておくべき習慣的な能力は五つある。 (1)何に自分の時間がとられているかを知ること、残されたわずかな時間を体系的に管理すること (2)外の世界に対する貢献に焦点を合わせること。「期待されている成果は何か」からスタートすること (3)強みを基盤にすること。弱みを基盤にしてはならない。すなわちできないことからスタートしてはならない (4)優れた仕事が際立った成果をあげる領域に力を集中することである。最初に行なうべきことをおこなうことである。二番手に回したことは全く行ってはならない。 (5)成果をあげるよう意思決定を行うことである。必要なものはごくわずかの基本的な意思決定である。あれこれの戦術ではなく一つの正しい戦略である。
成果をあげる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする。 成果をあげる者は、時間が制約要因であることを知っている。あらゆるプロセスにおいて、成果の限界を規定するものは最も欠乏した資源である。それが時間である。
成果をあげるエグゼクティブは、部下が上司たる自分を喜ばせるためなどではなく、仕事をするために給料を払われていることを認識している。(中略)人に成果をあげさせるには、「自分とうまくいっているか」を考えてはならない。「いかなる貢献ができるか」を問わなければならない。「何ができないか」を考えてもならない。「何を非常によくできるか」を考えなければならない。
成果をあげるエグゼクティブも自らに対する制約条件は気にしている。しかし彼らは、してよいことで、かつ、する値打ちのあることを簡単に探してしまう。させてもらえないことに不満を言う代わりに、してよいことを次から次へと行う。その結果、同僚たちには重くのしかかっている制約が彼らの場合は消えてしまう。「何もさせてくれない」という言葉は、惰性のままに動くための言い訳ではないかと疑わなければならない。もちろん、誰もが何らかの厳しい制約の中にいる。しかし、たとえ実際には何らかの成約があったとしても、することのできる適切かつ意味のある事はあるはずである。成果をあげるエグゼクティブはそれらのものを探す。まず初めに「何ができるか」という質問からスタートするならば、ほとんどの場合、手持ちの時間や資源では処理できないほど、多くのことがあることを知るはずである。
決定のプロセスで最も時間がかかるのは、決定そのものではなく決定を実施に移す段階である。決定は実務レベルに下さないかぎり決定とはいえず、よき意図にすぎない。(中略)決定の実行が具体的な手順として誰か特定の人の仕事と責任になるまでは、いかなる決定も行なわれていないに等しい。それまでは意図があるだけである。

読書履歴:プロフェッショナルマネジャー / ハロルド・ジェニーン

プロフェッショナルマネージャー

2016年6月30日読了。

内容・感想まとめ

副題に『58期連続増益の男』とあり、中間管理職的な”マネージャー”による、マネジメントやチームビルディングに関する本だと思って読んだら全くそんなことは無かった。要注意。

350社からなる一大コングロマリット・ITT社を創り上げた著者ハロルド・ジェニーン氏が、自身の経営に対する考えや経営者としての心構えを全14章・300ページ以上にわたって紹介。ありきたりな経営者による立身出世伝でもなければ、マネジメントに関するハウツー本でもない。経営学の様なロジックは全くないが、実績を伴った人による、言いようのない熱量と説得力を持った内容。

自分は経営者じゃないし、どうしたら良いか答えが欲しい、みたいなスタンスの人にはオススメ出来ない。それこそ、解説を書いているユニクロ・柳井社長のような、プロの経営者として圧倒的に突き抜けた実力をつけたい、実績をつくって世に名を残したい、そういう人が心の支えにするような本だと感じた。

マーカー引いた所(引用・抜粋)

ビジネスは科学ではない(中略)人生と同様に、どんなチェックリストにも方式にも完全にはおさめきれない、活力にあふれた流動的なものだ
本を読むときは、初めから終わりへと読む。ビジネスの経営はそれとは逆だ。終わりから始めて、そこへ到達するためにできる限りのことをするのだ。
現実的な確固とした目的を定めること、あるいは終わりから始めることのすばらしい点は、それ自体が、その目的に達するためになすべきことを示してくれ始めるところにある。
経験とはなにか新しいことを発見し、学び、能力の成長と蓄積をもたらすプロセスである。(中略)職業的経歴においてある点を越えると、金銭的報酬はさして重要ではない(中略)そこまでいくと、ひとはもう一度、仕事が与えてくれる経験へと立ち戻る。自己の気概を試す挑戦でもあり快事でもあり、楽しみでも誇りでもあるものへ、そして骨身を惜しまない勉励のみが提供できる自己達成の感覚へ回帰するのである。
危機や破局は一夜にして生ずるものではない。それは問題が長いあいだ隠ぺいされ、症状が悪化するままに放置されてきた結果である。
会社が最高経営者によって定められたゴールに向かって突進する一つのチームとして行動するように、組織図に含まれるすべての人々を、共同一致して機能させ、何よりも肝要な、緊密な人間関係によって結束させた時に、初めて真の経営は始まる。
私の関心があるのは、責任者を譴責することではなくて、当面の問題を解決することだ(中略)われわれは問題の関係者に審判をくだすことより、問題を解決し、非能率をなくすことに関心があるのだということを、彼らは悟った。
間違いをしたり、たまに過失を犯したりするのは恥でも不真面目でもないと私は本気で言っている(中略)重要なのは自己の過失に立ち向かい、それらを吟味し、それから学び、自己のなすべきことをするのだ。唯一の本当の間違いは、間違いを犯すことを恐れることである。
事実を客観的に眺めることは、経営成功を収める最も重要な条件のひとつだ。人々が意思決定を謝るのは、その決定が、入手した事実についての不適切な知識に基づいたものである場合が最も多い。
われわれが吟味した”事実”の中には、つぎの様なものがあった。「表面的な事実(一見事実と見える事柄)」「仮定的な事実(事実とみなされている事柄)」「報告された事実(事実として報告されたこと)」「希望的事実(願わくば事実で合って欲しい事柄)」(中略)たいていの場合、これらはぜんぜん事実ではない。(中略)”事実ではない事実”のために、マネジメント全体の物事や意思決定の流れが間違った方向に向けられて、計り知れぬ金と時間と士気のロスをもたらす危険性がある
経営者は経営しなくてはならぬ! ”経営(する)”とはなにかをなし遂げること、マネジャーである個人なりマネジャーのチームなりが、努力するに値することとしてやり始めたことをやり遂げることだ。”しなくてはならぬ”とは、それをやり遂げなくてはならぬということだ。(中略)もしその結果を達成することができなければ、その人は経営者ではない。
経営の効験を測定するのは主観的な行為ではない。それは四半期または年度の終わりに、損益計算書によって測定される。その数字を見れば何が起こったか一目瞭然である。つまり、マネジメントは目標を達成したか、しなかったかのどちらかだ。
マネージャーは個々人が提出する”事実”を受取り、それらから偏見(自分の偏見も含む)をはぎ取り、物事の真の姿を見極めなければならない。(中略)企業のヒエラルキーの中で、低い地位にあればあるほど、自分の行動のよりどころとなる事実を確かめるのに多くの時間をかけることができるにも関わらず、なかなかそうしない。そして逆に、地位が高まり、大きな責任を託されるようになればなるほど、事実をゆっくりちぇっくしている時間がなくなるにもかかわらず、そうすることはますます重要になる。
どれほど論理的で理屈にかなっていようと、決定的にテストされるのは”説明”ではない。テストされるのは、きみがマネジャーとしてやれる限りのことをやり尽くさずに、不満な結果を満足なものとして受け入れるかどうかだ。(中略)あるマネジャーと別のマネジャーとの重要な違いは、そのおのおのがどんな基準を定め、満足すべき経営というものについてみずから定めた条件を満たすためにどれだけのことをするかということだ。
あらゆる最高経営者の第一の義務は会社の目標を定めることである。ゴールポストの方向を人々に示し、どういうふうにしてそこへ達するか指示するのは彼の責任である。
真実こそ良い経営の核心をなすものである。経営決定は事実の正直な検討に基づいてなされなくてはならず、地位の上下関係や脅迫や相互依存や友情その他を通じて他人の力を借りた一個の人間によって動かされるべきものでは無い。
私は誰かの能力をけなしたり、脅かしたりしたことは一度もない。皮肉や個人攻撃はいかなるレベルでも慎むべきものとされた。論理的、啓発的な批判より、利口ぶった皮肉な言葉が、想像力に富む良い考えの芽を摘み取ってしまうことが多い。
きみの思い通りにやるなら、日夜よく研究して、自分が何をやっているかを自覚してやりたまえ。決して闇雲に何かをやったりしないように。きみが困った立場になるのは、きみが状況に関する事実を充分に探究しなかったために物事がおかしくなったのだとわかった時だ。
最高経営者として人々を鼓舞する最良の道は、行為と日常の態度によって、自分が心から彼らを支持していることをわからせることである。(中略)それがつまり、みんなが危機にある時、率先してオールをつかむということだ。
真のリーダーは下の人々に、どんな理由からであれ自分に近づくことを恐れさせないように、まがいものでない門戸開放政策を維持しなくてはならない。
会社を統率する人間は、その会社の人々が本当は彼のために働いているのではないということを認識しなくてはならない。彼らは彼らと一緒に自分自身のために働いているのだ。彼らはそれぞれに自分の夢を、自己達成への要素を持っている。彼が自分のそれを満たすのを、彼らが助けてくれるのと同じくらい、彼もまた彼らが自分たちのそれを満たすのを助けてやらなくてはならない。
数字自体は何をなすべきかを教えてはくれない。それは行動へのシグナル、思考への引き金にすぎない。それは水脈のありかを指し示す占う棒に似ている。実際に水を得るためには掘らなくてはならない。企業経営において肝要なのは、そうして数字の背後で起こっていることを突き止めることだ。
数字はいわば会社の操縦装置であり、疲労のために頭がくらくらしてくるか、それともある数字はまたは数字の集合が、他の中から抜きんでて注意を要求し、そしてその要求が満たされるまでは、読んで読んで読み続けなくてはならない。

 

すべての良い会社経営の最も重要かつ本質的な要素は情緒的態度である。(中略)マネジメントは生きている力だ。それは納得できる水準に達するように、物事をやり遂げる力である。マネジメントには目的が、献身が無くてはならず、その献身は情緒的な自己投入でなくてはならぬ。それは真のマネジャーならだれでも、人格の枢要部分として組みこまれていなければならないものだ。
なすべきことをしようとする衝動の原動力となるのは、論理ではなく、深い所に内在する情緒である。自分がなぜそういうふうに行動するのか、またなぜほかの行動ではなくその行動を選択するのか、彼には説明できないかもしれない。彼がそうするのは、それが正しいことだと感じるからだ。その情緒の動きは彼と一緒に、あるいは彼の下に働く人々にも伝わる。彼のその情緒的献身は、会社の目標のみならず自分たちに対するものであることを、彼レは感じ取る。そして彼らは彼の性格の本質をなすその”情緒”に同調して、喜んで彼のリードに従う。
マネジャーが目的を達成するためには、なんとしても、正しい決定をするのに必要な情報を入手しなくてはならない。そうすれば、目的への道は一歩一歩、おのずと開けていく。どの一段を上がるにも、真の状況を把握するための正確な事実が必要だ。信頼できる情報に拠ることができれば、決定を行うことはさほど困難えはない。事実は力である。
実績は実在であり、実績のみが実在である。これがビジネスの不易の大原則だと私は思う。実績のみが、きみの自信、能力、そして勇気の最良の尺度だ。実績のみが、きみ自身として成長する自由をきみに与えてくれる。実績こそきみの実在だ。ほかのことはどうでもいい。マネジャーとは”実績をもたらす人間”だと私が定義するのはこの理由による。